三島町側から小田原町方面を望んだ箱根宿の眺望。中央の東海道に、明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線が見え、芦の湖畔の堂ヶ嶋に明治19年(1886)に竣工した箱根離宮がまだ見えないので、その間の撮影と推測される。箱根宿は江戸期のそれとほとんど変わっていない。This is the post town of Hakone viewed from Mishima-cho when facing Odawara-cho. Since the telegraph pole placed between Tokyo and Nagasaki in 1873 is visible, and the Hakone Imperial Villa at Dogashima by Lake Ashinoko in 1886 cannot be seen, this photo is assumed to have been taken between those periods. The post town of Hakone has not changed since the Edo Period
宿場(宿駅)の起源は、大化の改新の駅制にまで溯る。江戸時代に顕著な発達を見せ、東海道五十三次、中山道六十七次のような宿場町が各地にできた。幕府の公用に供するため一定数の人馬が用意され、また一般旅行者の...
箱根湯本の玉簾の滝を見学する女性と駕籠屋の様子である。付近の景観から実業家子安峻により滝ノ前遊園として整備された明治24年(1891)以降の撮影と分かる。駕籠舁の半纏に「一乃湯」とあり、塔ノ沢温泉の老...
箱根宿壬生屋あたりから、芦ノ湖を眺めた図で、ほぼ同じ構図がThe Far Eastの2巻14号に載る。当時の新聞は直に写真を張りつけたので、新聞によって写真が微妙に異なることがよくある。A view ...
右端の家の看板により小田原町の旅籠(馬宿)万屋長左衛門の位置から三島町方面を望んだ箱根宿の眺望と分かる。中央の道は東海道。人物は遠くに僅かに見えるが、同じ構図で、多人数の写った写真もある。明治4年(1...
山の形や川の流れ、建物等から判断して、箱根で該当するところはないように思われる。博捜すれば、あるいは、どこか当てはまる場所があるかも知れないが、今現在不明である。Judging from the s...
箱根宿の新町から箱根関所跡方向に向いた構図。背後の山は、駒ヶ岳。駕籠屋のいる街道は東海道(現在の国道一号線)で、この新町の写真右手の家屋は南西方向向きなので、子供や老人がひなたぼっこをしているような様...
元箱根の一の鳥居付近の箱根旧街道と杉並木。電信柱は明治6年(1873)に東京・長崎間に開通した電信用である。つまり、電信線は江戸時代の東海道に沿って張られたので、箱根八里の旧東海道であるこの街道に電信...
箱根宿の背後から芦ノ湖越に見た富士山の写真で、箱根の典型的な風景。家並みの中央の屋根がなだらかな二階屋ははふや(現箱根ホテル)、その左にピラミッド型に見えるのは、右から順に又原、川田、駒、石内の各本陣...
湯本茶屋付近から眺めた双子山と箱根旧街道の様子。明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線を支えるための腕木が松に見えるので、電信柱を立てる前の仮設のものとすれば、敷設直後の写真であろう。こ...
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見えず、それ以前の撮影であろう。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所であ...
旧箱根宿の三島町から小田原町方面を見た構図。家並みは江戸時代とほとんど変わらず、本陣等も昔の佇まいで残っている。芦ノ湖畔の堂ヶ嶋の上に箱根離宮が見えるので、明治19年(1886)以降の撮影と分かる。右...
箱根神社付近の芦ノ湖と元箱根の様子。画面左手の岸に見える岩は曽我五郎の繋ぎ石で、現在は護岸工事で埋められ、マンホールの下になっている。画面中央左手の一の鳥居の側に釜がないので、明治14年以降と分かる。...
箱根神社の二の鳥居と駕籠屋の写真で、明治13年(1880)の小林清親の絵では高札は鳥居の右側にあるが、左側に移動している。また、元寇の際に国土平穏を祈願し、神恩に感謝して造られた鎌倉期の鉄湯釜二つ(国...
旧神奈川宿の台町を東から西方向に撮影したものであろう。宿場時代の面影を伝える写真である。左手の家並みの裏手の崖下は、袖ヶ浦と呼ばれる海で、江戸時代には風光明媚なことで知られた。右手の丘は高島台、坂を上...
箱根の芦ノ湖畔の杉並木入口付近の様子である。電信柱が写っているが、箱根郵便局に電信が敷設されたのは、明治14年7月なのでそれ以降の撮影である。もし電柱であれば、明治45年まで時期は下る。Scene n...
宿場(宿駅)の起源は、大化の改新の駅制にまで溯る。江戸時代に顕著な発達を見せ、東海道五十三次、中山道六十七次のような宿場町が各地にできた。幕府の公用に供するため一定数の人馬が用意され、また一般旅行者の...
箱根湯本の玉簾の滝を見学する女性と駕籠屋の様子である。付近の景観から実業家子安峻により滝ノ前遊園として整備された明治24年(1891)以降の撮影と分かる。駕籠舁の半纏に「一乃湯」とあり、塔ノ沢温泉の老...
箱根宿壬生屋あたりから、芦ノ湖を眺めた図で、ほぼ同じ構図がThe Far Eastの2巻14号に載る。当時の新聞は直に写真を張りつけたので、新聞によって写真が微妙に異なることがよくある。A view ...
右端の家の看板により小田原町の旅籠(馬宿)万屋長左衛門の位置から三島町方面を望んだ箱根宿の眺望と分かる。中央の道は東海道。人物は遠くに僅かに見えるが、同じ構図で、多人数の写った写真もある。明治4年(1...
山の形や川の流れ、建物等から判断して、箱根で該当するところはないように思われる。博捜すれば、あるいは、どこか当てはまる場所があるかも知れないが、今現在不明である。Judging from the s...
箱根宿の新町から箱根関所跡方向に向いた構図。背後の山は、駒ヶ岳。駕籠屋のいる街道は東海道(現在の国道一号線)で、この新町の写真右手の家屋は南西方向向きなので、子供や老人がひなたぼっこをしているような様...
元箱根の一の鳥居付近の箱根旧街道と杉並木。電信柱は明治6年(1873)に東京・長崎間に開通した電信用である。つまり、電信線は江戸時代の東海道に沿って張られたので、箱根八里の旧東海道であるこの街道に電信...
箱根宿の背後から芦ノ湖越に見た富士山の写真で、箱根の典型的な風景。家並みの中央の屋根がなだらかな二階屋ははふや(現箱根ホテル)、その左にピラミッド型に見えるのは、右から順に又原、川田、駒、石内の各本陣...
湯本茶屋付近から眺めた双子山と箱根旧街道の様子。明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線を支えるための腕木が松に見えるので、電信柱を立てる前の仮設のものとすれば、敷設直後の写真であろう。こ...
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見えず、それ以前の撮影であろう。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所であ...
旧箱根宿の三島町から小田原町方面を見た構図。家並みは江戸時代とほとんど変わらず、本陣等も昔の佇まいで残っている。芦ノ湖畔の堂ヶ嶋の上に箱根離宮が見えるので、明治19年(1886)以降の撮影と分かる。右...
箱根神社付近の芦ノ湖と元箱根の様子。画面左手の岸に見える岩は曽我五郎の繋ぎ石で、現在は護岸工事で埋められ、マンホールの下になっている。画面中央左手の一の鳥居の側に釜がないので、明治14年以降と分かる。...
箱根神社の二の鳥居と駕籠屋の写真で、明治13年(1880)の小林清親の絵では高札は鳥居の右側にあるが、左側に移動している。また、元寇の際に国土平穏を祈願し、神恩に感謝して造られた鎌倉期の鉄湯釜二つ(国...
旧神奈川宿の台町を東から西方向に撮影したものであろう。宿場時代の面影を伝える写真である。左手の家並みの裏手の崖下は、袖ヶ浦と呼ばれる海で、江戸時代には風光明媚なことで知られた。右手の丘は高島台、坂を上...
箱根の芦ノ湖畔の杉並木入口付近の様子である。電信柱が写っているが、箱根郵便局に電信が敷設されたのは、明治14年7月なのでそれ以降の撮影である。もし電柱であれば、明治45年まで時期は下る。Scene n...
宿場(宿駅)の起源は、大化の改新の駅制にまで溯る。江戸時代に顕著な発達を見せ、東海道五十三次、中山道六十七次のような宿場町が各地にできた。幕府の公用に供するため一定数の人馬が用意され、また一般旅行者の...
箱根湯本の玉簾の滝を見学する女性と駕籠屋の様子である。付近の景観から実業家子安峻により滝ノ前遊園として整備された明治24年(1891)以降の撮影と分かる。駕籠舁の半纏に「一乃湯」とあり、塔ノ沢温泉の老...
箱根宿壬生屋あたりから、芦ノ湖を眺めた図で、ほぼ同じ構図がThe Far Eastの2巻14号に載る。当時の新聞は直に写真を張りつけたので、新聞によって写真が微妙に異なることがよくある。A view ...