知恩院経蔵を御影(ごえい)堂南側より石燈籠をはさみ東に望む。経蔵は元和5年(1615)の創建で、本瓦葺で二層の宝形造である。裳階部分には壁・扉・窓がなく吹放しで、柱が立ち並んで周りを取り巻く「周柱式」が用いられている。背後には華頂山が迫る。左方から御影(ごえい)堂の屋根が姿を見せる。Kyozo (Sutra Library) of Chion-in Temple seen from the south side, facing east. The Kyozo was built in 1615. The building style is two story hokei-zukuri with a tiled roof. There are no walls, doors, or windows. This style is called shuchu-shiki (radiating column). Mt. Kacho rises in the background. The roof of the Goei-do is visible on the left
清水寺西門と三重塔を仁王門東側より東に見上げる。参道は右方の西門をくぐり三重塔へ至る石段と、左方の直接に三重塔へと至る石段に分かれている。西門西側の斜面には岸駒灯籠と呼ばれる灯籠群が建ち並ぶ。西門西門...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の植え込みは細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回...
西本願寺御影(ごえい)堂正面を東側から西を向いて撮影する。中央には青銅製の灯籠が建つ。御影堂正面の階段前では礼拝している人の姿が見える。御影堂は大師堂とも呼ばれ、寛永13年(1636)の創建。入母屋造...
西本願寺飛雲閣北西部を滴水園滄浪池北側から南に望む。飛雲閣は聚楽第の遺構と伝えられる桃山時代の建築で、三層、柿葺の殿閣建築である。南面北面約25.8m、東面約11.8m、西面約12.5mで、第一層左は...
東本願寺大師堂を境内南東側から北西に望む。大師堂前には見事な枝振りの松の木が植えられている。木の下には複数の男性が立っている。大師堂は大谷光勝法主の発願により15年の歳月を要して明治28年(1895)...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
東大寺大仏殿東に位置する本堂は、十一面観音を本尊とし、毎年3月に行われる修二会(しゅにえ)の行法で名高い。これは十一面観音の前で悔過(けか)の行法を修するもので、「お水取り」の名でも知られている。Th...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
知恩院御影堂を南西側より北東に望む。御影堂は知恩院の本堂で、法然上人の御影を安置する。桁行11間、梁間9間、単層、入母屋造、本瓦葺で、寛永16年(1639)に再建された。右背後に華頂山が姿をのぞかせる...
明治後期から大正初期(1900年前後)の手彩色の絵葉書。長崎市の西岸、稲佐地区にある浄土宗の悟慎寺。江戸時代中国人を弔うために造られた。寺域に、外国人墓地があり、オランダ人、ロシア人、唐人の三国に区分...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
清水寺西門と三重塔を仁王門東側より東に見上げる。参道は右方の西門をくぐり三重塔へ至る石段と、左方の直接に三重塔へと至る石段に分かれている。西門西側の斜面には岸駒灯籠と呼ばれる灯籠群が建ち並ぶ。西門西門...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の植え込みは細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回...
西本願寺御影(ごえい)堂正面を東側から西を向いて撮影する。中央には青銅製の灯籠が建つ。御影堂正面の階段前では礼拝している人の姿が見える。御影堂は大師堂とも呼ばれ、寛永13年(1636)の創建。入母屋造...
西本願寺飛雲閣北西部を滴水園滄浪池北側から南に望む。飛雲閣は聚楽第の遺構と伝えられる桃山時代の建築で、三層、柿葺の殿閣建築である。南面北面約25.8m、東面約11.8m、西面約12.5mで、第一層左は...
東本願寺大師堂を境内南東側から北西に望む。大師堂前には見事な枝振りの松の木が植えられている。木の下には複数の男性が立っている。大師堂は大谷光勝法主の発願により15年の歳月を要して明治28年(1895)...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
東大寺大仏殿東に位置する本堂は、十一面観音を本尊とし、毎年3月に行われる修二会(しゅにえ)の行法で名高い。これは十一面観音の前で悔過(けか)の行法を修するもので、「お水取り」の名でも知られている。Th...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
知恩院御影堂を南西側より北東に望む。御影堂は知恩院の本堂で、法然上人の御影を安置する。桁行11間、梁間9間、単層、入母屋造、本瓦葺で、寛永16年(1639)に再建された。右背後に華頂山が姿をのぞかせる...
明治後期から大正初期(1900年前後)の手彩色の絵葉書。長崎市の西岸、稲佐地区にある浄土宗の悟慎寺。江戸時代中国人を弔うために造られた。寺域に、外国人墓地があり、オランダ人、ロシア人、唐人の三国に区分...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
清水寺西門と三重塔を仁王門東側より東に見上げる。参道は右方の西門をくぐり三重塔へ至る石段と、左方の直接に三重塔へと至る石段に分かれている。西門西側の斜面には岸駒灯籠と呼ばれる灯籠群が建ち並ぶ。西門西門...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の植え込みは細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回...