西本願寺御影(ごえい)堂正面を東側から西を向いて撮影する。中央には青銅製の灯籠が建つ。御影堂正面の階段前では礼拝している人の姿が見える。御影堂は大師堂とも呼ばれ、寛永13年(1636)の創建。入母屋造、本瓦葺で、東西24間半(約45m)、南北31間半(約57m)、棟高15間(約27m)である。Goei-do of Nishi Honganji Temple, looking from the east side facing west. A bronze lantern is installed at the centre. People can be seen praying in front of the stairs. The Goei-do is also called the Taishi-do and was built in 1636. It is an irimoya-zukuri style building with roof tiles and an east-west width of 45 meters, a north-south length of 57 meters, and a height of 27 meters
伏見稲荷大社拝殿東側の石段下から同社本殿を東に望む。右手には常夜灯の石灯籠が置かれる。写真の本殿は明応3年(1494)の建立で、天正17年(1589)に豊臣秀吉が修理した。正面の唐破風造の向拝は元禄7...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
西本願寺境内を御影(ごえい)堂南東側から北北西に望む。左から御影堂(大師堂)、阿弥陀堂(本堂)、水吹き銀杏が見える。御影堂は寛永13年(1636)の創建、阿弥陀堂は宝暦10年(1760)の創建で、両者...
東本願寺大師堂を境内南東側から北西に望む。大師堂前には見事な枝振りの松の木が植えられている。木の下には複数の男性が立っている。大師堂は大谷光勝法主の発願により15年の歳月を要して明治28年(1895)...
西本願寺飛雲閣北西部を滴水園滄浪池北側から南に望む。飛雲閣は聚楽第の遺構と伝えられる桃山時代の建築で、三層、柿葺の殿閣建築である。南面北面約25.8m、東面約11.8m、西面約12.5mで、第一層左は...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
東大寺境内の東山麓に、御水取りの行事で知られている二月堂がある。この写真は、二月堂の南にある石階段下の西南方向から、二月堂を見上げるように撮影する。左手下に興成神社の小社があり、小社後方に初代の良弁杉...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
明治後期から大正初期(1900年前後)の手彩色の絵葉書。長崎市の西岸、稲佐地区にある浄土宗の悟慎寺。江戸時代中国人を弔うために造られた。寺域に、外国人墓地があり、オランダ人、ロシア人、唐人の三国に区分...
西大谷円通橋西詰より登り坂の参道を東に望む。背後に建つ山門の脇には2本の大きな松がそびえ立つ。円通橋は安政3年(1865)に築造された石橋である。その形より眼鏡橋と称され、幕末から明治にかけて紅白の蓮...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
茂木の玉台寺の山門。僧寶譽の創建で島原の領主松倉氏の代に第三世義山和尚か再建している。義山和尚は日見の桜谷寺、樺島の無量寺の開山でもある。寺内には島原洪水の際に打ち上げられた死骸を埋めた塔がある。塔の...
伏見稲荷大社拝殿東側の石段下から同社本殿を東に望む。右手には常夜灯の石灯籠が置かれる。写真の本殿は明応3年(1494)の建立で、天正17年(1589)に豊臣秀吉が修理した。正面の唐破風造の向拝は元禄7...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
西本願寺境内を御影(ごえい)堂南東側から北北西に望む。左から御影堂(大師堂)、阿弥陀堂(本堂)、水吹き銀杏が見える。御影堂は寛永13年(1636)の創建、阿弥陀堂は宝暦10年(1760)の創建で、両者...
東本願寺大師堂を境内南東側から北西に望む。大師堂前には見事な枝振りの松の木が植えられている。木の下には複数の男性が立っている。大師堂は大谷光勝法主の発願により15年の歳月を要して明治28年(1895)...
西本願寺飛雲閣北西部を滴水園滄浪池北側から南に望む。飛雲閣は聚楽第の遺構と伝えられる桃山時代の建築で、三層、柿葺の殿閣建築である。南面北面約25.8m、東面約11.8m、西面約12.5mで、第一層左は...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
東大寺境内の東山麓に、御水取りの行事で知られている二月堂がある。この写真は、二月堂の南にある石階段下の西南方向から、二月堂を見上げるように撮影する。左手下に興成神社の小社があり、小社後方に初代の良弁杉...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
明治後期から大正初期(1900年前後)の手彩色の絵葉書。長崎市の西岸、稲佐地区にある浄土宗の悟慎寺。江戸時代中国人を弔うために造られた。寺域に、外国人墓地があり、オランダ人、ロシア人、唐人の三国に区分...
西大谷円通橋西詰より登り坂の参道を東に望む。背後に建つ山門の脇には2本の大きな松がそびえ立つ。円通橋は安政3年(1865)に築造された石橋である。その形より眼鏡橋と称され、幕末から明治にかけて紅白の蓮...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
茂木の玉台寺の山門。僧寶譽の創建で島原の領主松倉氏の代に第三世義山和尚か再建している。義山和尚は日見の桜谷寺、樺島の無量寺の開山でもある。寺内には島原洪水の際に打ち上げられた死骸を埋めた塔がある。塔の...
伏見稲荷大社拝殿東側の石段下から同社本殿を東に望む。右手には常夜灯の石灯籠が置かれる。写真の本殿は明応3年(1494)の建立で、天正17年(1589)に豊臣秀吉が修理した。正面の唐破風造の向拝は元禄7...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...