成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-61と同一。The Myogoin Shingo Shinshoji, which is popularly called Narita Fudo, is the head temple of the Shingon Chizan Sect. Seen through the gates and walls is the Komyodo, which was the main building until the Shakado was built in 1858. It was built in 1701. Identical to the photo number 37-61
黒谷金戒光明寺三門を三門北東側から西に望む。三門は万延1年(1860)に創建された。本瓦葺きの入母屋の重厚な大屋根を構える。裏側の正面には後小松天皇の宸翰「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられ、右前には石...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
表妙義白雲山東麓にある杉の古木に囲まれた妙義神社。社殿は宝永期から宝暦2年までに再建されたもの。祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真。「地蔵菩薩霊験記」(国重文)を所蔵する。拝殿前に神官がひとり映ってい...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
西本願寺御影(ごえい)堂正面を東側から西を向いて撮影する。中央には青銅製の灯籠が建つ。御影堂正面の階段前では礼拝している人の姿が見える。御影堂は大師堂とも呼ばれ、寛永13年(1636)の創建。入母屋造...
光明寺は鎌倉市材木座にある浄土宗鎮西六義派の本山。仁治元年(1240)北条経時が創建した蓮華寺を寛元元年(1243)材木座に移し光明寺と改めた。写真は明応4年(1495)創建の総門を正面から写したもの...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
山門越しに本堂を見る。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。山門は元治元年(1864)大阪の豪商鹿島屋の寄進により建立されたという。本堂、山門、階段下左右の常夜灯ともに現存する。昭和4...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
五代将軍綱吉が生母桂昌院のために天和元年(1681)に建てた寺。神齢門と護国寺門の二つの山門があるが、写真は音羽通り側の神齢門付近から本堂に向かって境内を撮したもの。石段の向こうに中門、そして本堂の屋...
黒谷金戒光明寺三門を三門北東側から西に望む。三門は万延1年(1860)に創建された。本瓦葺きの入母屋の重厚な大屋根を構える。裏側の正面には後小松天皇の宸翰「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられ、右前には石...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
表妙義白雲山東麓にある杉の古木に囲まれた妙義神社。社殿は宝永期から宝暦2年までに再建されたもの。祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真。「地蔵菩薩霊験記」(国重文)を所蔵する。拝殿前に神官がひとり映ってい...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
西本願寺御影(ごえい)堂正面を東側から西を向いて撮影する。中央には青銅製の灯籠が建つ。御影堂正面の階段前では礼拝している人の姿が見える。御影堂は大師堂とも呼ばれ、寛永13年(1636)の創建。入母屋造...
光明寺は鎌倉市材木座にある浄土宗鎮西六義派の本山。仁治元年(1240)北条経時が創建した蓮華寺を寛元元年(1243)材木座に移し光明寺と改めた。写真は明応4年(1495)創建の総門を正面から写したもの...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
山門越しに本堂を見る。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。山門は元治元年(1864)大阪の豪商鹿島屋の寄進により建立されたという。本堂、山門、階段下左右の常夜灯ともに現存する。昭和4...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
五代将軍綱吉が生母桂昌院のために天和元年(1681)に建てた寺。神齢門と護国寺門の二つの山門があるが、写真は音羽通り側の神齢門付近から本堂に向かって境内を撮したもの。石段の向こうに中門、そして本堂の屋...
黒谷金戒光明寺三門を三門北東側から西に望む。三門は万延1年(1860)に創建された。本瓦葺きの入母屋の重厚な大屋根を構える。裏側の正面には後小松天皇の宸翰「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられ、右前には石...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
表妙義白雲山東麓にある杉の古木に囲まれた妙義神社。社殿は宝永期から宝暦2年までに再建されたもの。祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真。「地蔵菩薩霊験記」(国重文)を所蔵する。拝殿前に神官がひとり映ってい...