大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A photo taken at Saijoji Temple, Mt. Daiyu (located in present-day Minami Ashigara City). Priests, chigo (children in a Buddhist procession) and donated bells are seen in the photo. The tengu (long-nosed goblin) is the symbol of Mt. Daiyu. This statue does not exist at present, probably due to contribution to the government during World WarⅡ. This photo may date back to the mid-Meiji era. Chigo wore hakama (long kimono trousers) before World WarⅡ
六代将軍家宣(文昭院)霊廟本殿の前面部分を北東方向から撮影したものである。勅額門を入った本殿前のこの区画には左手に水屋・井戸屋形、右手に鐘楼が配され、正面に左右廊を付けた向唐破風造の中門があった。中門...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
元治元年(1864)頃、ベアトが撮影した寺町の大音寺本堂。僧職と武士、従者が撮影されているが、整理番号28-21の鐘楼を撮影後、移動して撮ったと思われる。ベアトは上野彦馬をこの境内で撮影している。A ...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
大谷川畔の大日如来を安置した大日堂は明治35年の洪水で流失した。写真は流失する前の大日堂と庭園である。池辺には芭蕉の句碑があり、傍らに寮が設けられていた。The Dainichido enshrini...
明治中期から後期の、能福寺(現兵庫区)の大仏。能福寺は天台宗の名刹で、平安時代末期にこの地で日宋貿易を行った平清盛とのゆかりも深い。開港以来のキリスト教の隆盛に対する仏教の復興運動を背景に、この毘盧遮...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
茂木の玉台寺の山門。僧寶譽の創建で島原の領主松倉氏の代に第三世義山和尚か再建している。義山和尚は日見の桜谷寺、樺島の無量寺の開山でもある。寺内には島原洪水の際に打ち上げられた死骸を埋めた塔がある。塔の...
清水寺西門と三重塔を仁王門東側より東に見上げる。参道は右方の西門をくぐり三重塔へ至る石段と、左方の直接に三重塔へと至る石段に分かれている。西門西側の斜面には岸駒灯籠と呼ばれる灯籠群が建ち並ぶ。西門西門...
六代将軍家宣(文昭院)霊廟本殿の前面部分を北東方向から撮影したものである。勅額門を入った本殿前のこの区画には左手に水屋・井戸屋形、右手に鐘楼が配され、正面に左右廊を付けた向唐破風造の中門があった。中門...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
元治元年(1864)頃、ベアトが撮影した寺町の大音寺本堂。僧職と武士、従者が撮影されているが、整理番号28-21の鐘楼を撮影後、移動して撮ったと思われる。ベアトは上野彦馬をこの境内で撮影している。A ...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
大谷川畔の大日如来を安置した大日堂は明治35年の洪水で流失した。写真は流失する前の大日堂と庭園である。池辺には芭蕉の句碑があり、傍らに寮が設けられていた。The Dainichido enshrini...
明治中期から後期の、能福寺(現兵庫区)の大仏。能福寺は天台宗の名刹で、平安時代末期にこの地で日宋貿易を行った平清盛とのゆかりも深い。開港以来のキリスト教の隆盛に対する仏教の復興運動を背景に、この毘盧遮...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
茂木の玉台寺の山門。僧寶譽の創建で島原の領主松倉氏の代に第三世義山和尚か再建している。義山和尚は日見の桜谷寺、樺島の無量寺の開山でもある。寺内には島原洪水の際に打ち上げられた死骸を埋めた塔がある。塔の...
清水寺西門と三重塔を仁王門東側より東に見上げる。参道は右方の西門をくぐり三重塔へ至る石段と、左方の直接に三重塔へと至る石段に分かれている。西門西側の斜面には岸駒灯籠と呼ばれる灯籠群が建ち並ぶ。西門西門...
六代将軍家宣(文昭院)霊廟本殿の前面部分を北東方向から撮影したものである。勅額門を入った本殿前のこの区画には左手に水屋・井戸屋形、右手に鐘楼が配され、正面に左右廊を付けた向唐破風造の中門があった。中門...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...