寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took a photo of the bell tower within the Daionji Temple compounds in Teramachi when he visited Nagasaki in 1864. Monks, warriors and servants look at Beato curiously
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
元治元年(1864)頃、ベアトが撮影した寺町の大音寺本堂。僧職と武士、従者が撮影されているが、整理番号28-21の鐘楼を撮影後、移動して撮ったと思われる。ベアトは上野彦馬をこの境内で撮影している。A ...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
有章院は徳川家継の法号。拝殿右側から勅額門?(写真右後方)に向かって鐘楼を撮したもの。Yushoin is the Buddhist name of Tokugawa Ietsugu. This is...
興福寺鐘鼓楼を撮影した、明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。寛文3年(1663)焼失、元禄4年(1691)再建享保15年(1730)重修されている。現在長崎県指定文化財。This...
有章院御霊殿の勅額門(右)と鐘楼である。徳川家霊廟御霊殿拝殿前庭には、勅額門に向かって左に鐘楼、右に水屋と井戸屋形を配するのが典型的な姿である。この鐘楼は、昭和20年3月10日の空襲からは焼失を逃れた...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
画面左の建物が釣鐘が納められている鐘楼(しょうろう)。鐘楼には竜、飛竜(ひりゅう)、鶴、麒麟、波など78体の彫刻が施されている。鐘楼は陽明門を挟んで鼓楼と共に対を成している。画面の中央に陽明門が見え、...
聖徳太子建立の七所のひとつ。写真は、五重塔(写真奥)と金堂(手前)。One of the seven buildings built by Shotoku Taishi. The picture is...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
長崎清水寺の全景である。中央に本堂、左に大師堂、その下に聖天堂。石段をへだてて本堂右に鐘楼堂が見える。ここには長崎最古の鐘楼が納められている。The overall view of Kiyomizu ...
2414の写真と似ているが、鐘楼の手前に車井戸が掘られた。それに左の弁天池がなくなっているのが異なる。弁天池は明治19年(1886)6月30日に埋められたので、当然それ以降の撮影である。右下のネガ番号...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
元治元年(1864)頃、ベアトが撮影した寺町の大音寺本堂。僧職と武士、従者が撮影されているが、整理番号28-21の鐘楼を撮影後、移動して撮ったと思われる。ベアトは上野彦馬をこの境内で撮影している。A ...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
有章院は徳川家継の法号。拝殿右側から勅額門?(写真右後方)に向かって鐘楼を撮したもの。Yushoin is the Buddhist name of Tokugawa Ietsugu. This is...
興福寺鐘鼓楼を撮影した、明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。寛文3年(1663)焼失、元禄4年(1691)再建享保15年(1730)重修されている。現在長崎県指定文化財。This...
有章院御霊殿の勅額門(右)と鐘楼である。徳川家霊廟御霊殿拝殿前庭には、勅額門に向かって左に鐘楼、右に水屋と井戸屋形を配するのが典型的な姿である。この鐘楼は、昭和20年3月10日の空襲からは焼失を逃れた...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
画面左の建物が釣鐘が納められている鐘楼(しょうろう)。鐘楼には竜、飛竜(ひりゅう)、鶴、麒麟、波など78体の彫刻が施されている。鐘楼は陽明門を挟んで鼓楼と共に対を成している。画面の中央に陽明門が見え、...
聖徳太子建立の七所のひとつ。写真は、五重塔(写真奥)と金堂(手前)。One of the seven buildings built by Shotoku Taishi. The picture is...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
長崎清水寺の全景である。中央に本堂、左に大師堂、その下に聖天堂。石段をへだてて本堂右に鐘楼堂が見える。ここには長崎最古の鐘楼が納められている。The overall view of Kiyomizu ...
2414の写真と似ているが、鐘楼の手前に車井戸が掘られた。それに左の弁天池がなくなっているのが異なる。弁天池は明治19年(1886)6月30日に埋められたので、当然それ以降の撮影である。右下のネガ番号...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...