真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和9年(1772) 再建) 、左奥に本堂 (享保15年 (1730) 再建)が見える。明治中期の撮影だろう。The Great Buddha built at Shinkoji Temple in September 1760. The bronze statue of Vairocana Buddha is located in front of the temple, facing east, and measures about 4.8 meters in height. It was made by Hasegawa Kuzaemon of Osaka. The bell tower, rebuilt in 1772, is behind the statue, and the main hall constructed in 1730 is visible to the far left. Probably taken in the mid-Meiji Period
五代将軍綱吉が生母桂昌院のために天和元年(1681)に建てた寺。神齢門と護国寺門の二つの山門があるが、写真は音羽通り側の神齢門付近から本堂に向かって境内を撮したもの。石段の向こうに中門、そして本堂の屋...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の島は細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回りに建...
画面左右にガス灯が、左端に庫裡(くり)が建つ。高徳院は大仏殿を再建するため明治12年(1879)に官の許可を得て広く喜捨(きしゃ)を募ったが、像前3枚の掲示板はその頃の寄進者名板か。また、像左下には簡...
真光寺門前の蓮池に座す大仏。明治中期の撮影だろう。左手に大門(文政10年 (1827) 改築)、右奥に鐘楼(明和9年(1772) 再建) が見える。境内に入って南側に一遍上人の廟所があり、一遍の墓塔と...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
真光寺境内一画の仏像。同寺は享保14年の火災、昭和20年の戦災で全伽藍を焼失したが、その後再建されて現在に至っている。The Buddha in a corner of Shinkoji Temple...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
西本願寺阿弥陀堂(本堂)を水吹き銀杏の北側より西を向いて撮影する。写真の阿弥陀堂は宝暦10年(1760)の創建で、東西21間余(約38m)、南北23間(約42m)、棟高13間余(約24m)である。左方...
善光寺(現在の長野市元善町)の本堂正面の図。善光寺は過去12回に渡り火災にあっているが、そのつど再建されて現在に至っている。本被写体は、宝永4年(1707)に再建されたものと思われる。The faca...
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
五代将軍綱吉が生母桂昌院のために天和元年(1681)に建てた寺。神齢門と護国寺門の二つの山門があるが、写真は音羽通り側の神齢門付近から本堂に向かって境内を撮したもの。石段の向こうに中門、そして本堂の屋...
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慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
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鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の島は細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回りに建...
画面左右にガス灯が、左端に庫裡(くり)が建つ。高徳院は大仏殿を再建するため明治12年(1879)に官の許可を得て広く喜捨(きしゃ)を募ったが、像前3枚の掲示板はその頃の寄進者名板か。また、像左下には簡...