元治元年(1864)頃、ベアトが撮影した寺町の大音寺本堂。僧職と武士、従者が撮影されているが、整理番号28-21の鐘楼を撮影後、移動して撮ったと思われる。ベアトは上野彦馬をこの境内で撮影している。A 1864 photo by Beato of the main building of Daionji Temple in Teramachi. The priests, warriors and servants posed for the photo after the bell tower in picture number 28-21 was taken. Beato took a photo of Ueno Hikoma within this temple
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
ベアト撮影。「ここから遠くないところで、マイジャー・ボードワンとバード大尉が殺された金沢道近くの「マツアミ」の寺」と記されているが、これは、イギリスの仮領事館が置かれていた高輪の東禅寺の山門である。T...
仁王門から撮影された浅草寺本堂正面。中央に立ち止まって顔だけこちらに向けているのは、櫓のようなものを担いでいるところからして、あるいは隅田川の渡し守であろうか。空襲で消失し、昭和33年に再建された。T...
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。寺伝によると延元2年(1337)日蓮の弟子日法の創建とするが、当初は小...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...
大谷川畔の大日如来を安置した大日堂は明治35年の洪水で流失した。写真は流失する前の大日堂と庭園である。池辺には芭蕉の句碑があり「あろたふと青葉若葉の日の光」と刻まれていた。この句碑は流失後再建された。...
八坂神社境内を東部から西に望む。右端に同社の本殿、左端に拝殿が建つ。本殿は承応3年(1654)に徳川家綱が紫宸殿を模して再建したもので、正面7間、側面6間、単層、入母屋造、檜皮葺である。中央の間に素戔...
西本願寺阿弥陀堂(本堂)を水吹き銀杏の北側より西を向いて撮影する。写真の阿弥陀堂は宝暦10年(1760)の創建で、東西21間余(約38m)、南北23間(約42m)、棟高13間余(約24m)である。左方...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
ベアト撮影。「ここから遠くないところで、マイジャー・ボードワンとバード大尉が殺された金沢道近くの「マツアミ」の寺」と記されているが、これは、イギリスの仮領事館が置かれていた高輪の東禅寺の山門である。T...
仁王門から撮影された浅草寺本堂正面。中央に立ち止まって顔だけこちらに向けているのは、櫓のようなものを担いでいるところからして、あるいは隅田川の渡し守であろうか。空襲で消失し、昭和33年に再建された。T...
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。寺伝によると延元2年(1337)日蓮の弟子日法の創建とするが、当初は小...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...
大谷川畔の大日如来を安置した大日堂は明治35年の洪水で流失した。写真は流失する前の大日堂と庭園である。池辺には芭蕉の句碑があり「あろたふと青葉若葉の日の光」と刻まれていた。この句碑は流失後再建された。...
八坂神社境内を東部から西に望む。右端に同社の本殿、左端に拝殿が建つ。本殿は承応3年(1654)に徳川家綱が紫宸殿を模して再建したもので、正面7間、側面6間、単層、入母屋造、檜皮葺である。中央の間に素戔...
西本願寺阿弥陀堂(本堂)を水吹き銀杏の北側より西を向いて撮影する。写真の阿弥陀堂は宝暦10年(1760)の創建で、東西21間余(約38m)、南北23間(約42m)、棟高13間余(約24m)である。左方...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
ベアト撮影。「ここから遠くないところで、マイジャー・ボードワンとバード大尉が殺された金沢道近くの「マツアミ」の寺」と記されているが、これは、イギリスの仮領事館が置かれていた高輪の東禅寺の山門である。T...
仁王門から撮影された浅草寺本堂正面。中央に立ち止まって顔だけこちらに向けているのは、櫓のようなものを担いでいるところからして、あるいは隅田川の渡し守であろうか。空襲で消失し、昭和33年に再建された。T...