2414の写真と似ているが、鐘楼の手前に車井戸が掘られた。それに左の弁天池がなくなっているのが異なる。弁天池は明治19年(1886)6月30日に埋められたので、当然それ以降の撮影である。右下のネガ番号にC25とあるからファサリ商会販売の写真と思われる。明治20年代後半か。Although similar to photograph #2414, this photograph shows a well in front of the bell tower, and Benten Pond has disappeared. Since the pond was filled in on June 30, 1886, this photograph must have been taken after that date. The inscription "C25" from the negative in the lower right indicates that this is a photograph sold by A. Farsari & Co. Probably taken in the latter half of the third decade of the Meiji Period (1892-1897)
江戸時代の名古屋は、城と熱田を南北に結ぶ本町通が中心道路であった。大須観音は本町通の西に位置する。この写真は大須観音の南上空から撮影したものである。左から本堂、五重塔、その右奥に書院と庫裏、その右手前...
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...
弁天池奥から北に向かって五重塔と鐘楼を撮す。整理番号4-10の位置より引いて、右に振ったもの。五重塔の左隣に本堂の屋根、右手前に経蔵が見える。芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」でも有名。The fiv...
五重塔の手前には弁天様を祀る質素な弁天社がある。弁天社の背後は茶飯茶屋。五重塔の右後ろの屋根は経堂である。回転して祈願したので輪堂、輪蔵とも呼ばれた。鐘つき堂は昭和20年(1945)の空襲で焼失。幸い...
弁天池から五重塔を望む。五重塔は天慶5年(942)安房守平公雅(あわのかみたいらのきんまさ)の創建にかかると伝えられている。本写真に写る塔は慶安元年(1648)に再建されたものである。明治44年(19...
寛永16年(1639)に古河城主土井利勝によって再建されたもの。手前の石灯籠は上野東照宮参道に並ぶもので、左手が東照宮本殿となる。本来は東照宮の五重塔であったが明治の神仏分離によって寛永寺に帰属した。...
寛永8年(1631)幕府重臣土井利勝が建立し上野東照宮に寄進。寛永16年(1639)薬師堂からの出火で類焼。写真の塔は同年土井利勝が再建したもの。手前は東照宮の石灯籠。参道の北側、上野動物園の敷地内に...
日光東照宮陽明門の真下から撮影したもの。画面左の建物は鐘楼で、その手前の屋根のある4本柱に支えられた建物には朝鮮鐘が下げられている。朝鮮鐘の右後ろにあるのはスタンド型の蓮灯籠。その後方に見えるのが上神...
仁和寺五重塔を塔西側から東に見上げる。辺りには小高い松の木と、御室桜が植えられている。手前の左右に続く参道は仁和寺の仁王門と金堂をつなぐ。仁和寺五重塔は寛永14年(1637)に徳川家光が創建した。各方...
幸田露伴『五重塔』にも描かれた天台宗天王寺の墓地。手前に人力車、その向こうにあるのは荷車か。道沿いに松や桜が並んでいる。五重塔は昭和32年心中放火事件のため消失。現在は礎石のみが残る。徳川慶喜の墓があ...
日光東照宮五重塔は一の鳥居の左奥にある。 朱塗りの五重塔は最上層は唐様、 下四層は和様である。 一階屋根下に十二支の動物が彫り込まれている。 内部に五智如来が安置されている。 菅笠をかぶった人と背負っ...
四天王寺伽藍の一部をなす五重の塔。享和元年12月5日落雷により焼失し、文化9年に再建されたものが、本被写体に当たる。昭和20年戦火により諸堂は再び焼失、昭和38年までに鉄筋で再建され、現在に至っている...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
法観寺五重塔を西側参道から東に見上げる。ガス灯が建つ参道には、大勢の参詣人が往来し賑わっている。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理...
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この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
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寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
川崎大師とは真言宗智山派大本山平間寺の通称。旧条約時代には、外国人がパスポートなしに旅行できる遊歩区域が定められていた。横浜の場合、東は六郷川まで、川崎大師はその東端に位置する名所として、多くの外国人...