明治後期から大正初期(1900年前後)の手彩色の絵葉書。長崎市の西岸、稲佐地区にある浄土宗の悟慎寺。江戸時代中国人を弔うために造られた。寺域に、外国人墓地があり、オランダ人、ロシア人、唐人の三国に区分されている。This is a hand-tinted picture postcard of Goshinji Temple of the Buddhist Jodo Sect, located at Inasa on the west side of Nagasaki Harbour, taken around 1900. The temple was built to serve Chinese residents in the early Edo Period. The international cemetery in the temple precincts is divided into three parts for the Dutch, Russians and Chinese
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
茂木の玉台寺の山門。僧寶譽の創建で島原の領主松倉氏の代に第三世義山和尚か再建している。義山和尚は日見の桜谷寺、樺島の無量寺の開山でもある。寺内には島原洪水の際に打ち上げられた死骸を埋めた塔がある。塔の...
『崇福寺』と題した、戦後のカラー絵葉書。長崎市の人々に赤寺として親しまれている。黄檗宗の寺で、名僧超然の開基による。最初はこの造りでなかったが、嘉永2年(1849)竜宮門造りで再建された。長崎を代表す...
西本願寺境内を御影(ごえい)堂南東側から北北西に望む。左から御影堂(大師堂)、阿弥陀堂(本堂)、水吹き銀杏が見える。御影堂は寛永13年(1636)の創建、阿弥陀堂は宝暦10年(1760)の創建で、両者...
明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。悟慎寺の墓域に稲佐国際墓地がある。特に、嘉永6年(1853)4月、司令官プチャーチン率いるロシア艦が入港して、乗組員が悟慎寺に入って以来、稲佐...
長崎市稲佐にある浄土宗悟真寺の外国人墓地。中央に見える白い塔はギリシャ正教の塔でロシア人墓地にある。その右手はオランダ人の墓域で、オランダ人商館長デュルコープなどの墓がある。The foreign c...
五代将軍綱吉が生母桂昌院のために天和元年(1681)に建てた寺。神齢門と護国寺門の二つの山門があるが、写真は音羽通り側の神齢門付近から本堂に向かって境内を撮したもの。石段の向こうに中門、そして本堂の屋...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
天平宝字3年(759)、数々の苦難をへて来日した唐僧鑑真によって創建された。境内には、金堂、講堂、宝蔵、鼓楼などがある。御影堂内に安置された鑑真座像はとくに有名である。This was built b...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
八坂神社境内を東部から西に望む。右端に同社の本殿、左端に拝殿が建つ。本殿は承応3年(1654)に徳川家綱が紫宸殿を模して再建したもので、正面7間、側面6間、単層、入母屋造、檜皮葺である。中央の間に素戔...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
大正初期の清水寺の絵葉書。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
茂木の玉台寺の山門。僧寶譽の創建で島原の領主松倉氏の代に第三世義山和尚か再建している。義山和尚は日見の桜谷寺、樺島の無量寺の開山でもある。寺内には島原洪水の際に打ち上げられた死骸を埋めた塔がある。塔の...
『崇福寺』と題した、戦後のカラー絵葉書。長崎市の人々に赤寺として親しまれている。黄檗宗の寺で、名僧超然の開基による。最初はこの造りでなかったが、嘉永2年(1849)竜宮門造りで再建された。長崎を代表す...
西本願寺境内を御影(ごえい)堂南東側から北北西に望む。左から御影堂(大師堂)、阿弥陀堂(本堂)、水吹き銀杏が見える。御影堂は寛永13年(1636)の創建、阿弥陀堂は宝暦10年(1760)の創建で、両者...
明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。悟慎寺の墓域に稲佐国際墓地がある。特に、嘉永6年(1853)4月、司令官プチャーチン率いるロシア艦が入港して、乗組員が悟慎寺に入って以来、稲佐...
長崎市稲佐にある浄土宗悟真寺の外国人墓地。中央に見える白い塔はギリシャ正教の塔でロシア人墓地にある。その右手はオランダ人の墓域で、オランダ人商館長デュルコープなどの墓がある。The foreign c...
五代将軍綱吉が生母桂昌院のために天和元年(1681)に建てた寺。神齢門と護国寺門の二つの山門があるが、写真は音羽通り側の神齢門付近から本堂に向かって境内を撮したもの。石段の向こうに中門、そして本堂の屋...
明治中期の真光寺大仏。目録番号2821 (布引山入口) ・4893 (同左) ・2814 (布引雌滝) と同様に、横浜の写真師日下部金兵衛(くさかべきんべえ)が制作、販売した写真。奥行きのある構図や、...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
天平宝字3年(759)、数々の苦難をへて来日した唐僧鑑真によって創建された。境内には、金堂、講堂、宝蔵、鼓楼などがある。御影堂内に安置された鑑真座像はとくに有名である。This was built b...
本門寺は日蓮入滅の地に正応元年(1288)建立された日蓮宗本山である。奥に写る五重塔は二代将軍秀忠が慶長12年(1607)に建立した。和様・唐様折衷の桃山期の建築様式を伝える唯一の五重塔であり、都内に...
八坂神社境内を東部から西に望む。右端に同社の本殿、左端に拝殿が建つ。本殿は承応3年(1654)に徳川家綱が紫宸殿を模して再建したもので、正面7間、側面6間、単層、入母屋造、檜皮葺である。中央の間に素戔...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
大正初期の清水寺の絵葉書。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
茂木の玉台寺の山門。僧寶譽の創建で島原の領主松倉氏の代に第三世義山和尚か再建している。義山和尚は日見の桜谷寺、樺島の無量寺の開山でもある。寺内には島原洪水の際に打ち上げられた死骸を埋めた塔がある。塔の...
『崇福寺』と題した、戦後のカラー絵葉書。長崎市の人々に赤寺として親しまれている。黄檗宗の寺で、名僧超然の開基による。最初はこの造りでなかったが、嘉永2年(1849)竜宮門造りで再建された。長崎を代表す...