伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32年(1899)の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。賑町(現伊勢佐木町3丁目)の賑座、もしくは両国座付近と思われる。The area between Isezaki-cho and Nigiwai-cho, which prospered from the second decade of the Meiji Period, had many theatres, teahouses and restaurants. This photograph captures the lively atmosphere of the street before the fire of 1899. This is probably Nigiwai-za or Ryogoku-za in Nigiwai-cho (present-day Isezaki-cho 3-chome)
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。中央に見えている塔は、...
石山寺(いしやまでら)境内の本堂正面から撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。瓦葺の建物(蓮如堂)の奥にみえるのが本...
元治元年(1864)末、生麦事件に懲りた幕府は、外国人の足を東海道から遠ざけるため、横浜の東南方、根岸から本牧にかけて、外国人遊歩新道を開設した。沿道には外国人相手の茶屋が建っていた。これはそのうちの...
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32年(1899)の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。賑町(現伊勢佐木町3丁目)の賑...
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。左にみえる建物は松ヶ枝町(現伊...
火災の後、明治11年に再建された新富座。彩色された色も褪せ、映像はごく不鮮明。かろうじて建物の普請、看板、たたずむ人影、人力車などが判別できる。詳細は同一のものと思われる整理番号25-42によって知ら...
画面右の旗は、活動写真の旗であるから、明治30年(1897)後半以降のものである。電信柱の横桁が多いのは、明治40年(1907)前後の角座付近の写真にあり、その前後以外には見られないので、明治40年こ...
娘玉乗りで有名だった江川大盛館。玉乗り娘が並んでいる。浅草六区興行街は、浅草寺の日除地だった田圃が大池を開削した土で明治16年(1883)に埋め立てられ、明治半ばを過ぎると日本一の歓楽街になった。奥は...
画面左に見えるのは朝日座である。画面の真中に写っているのが角座であるが、角座の両隣に三階建ての建物が建つているが、これは明治34年(1901)のことである。The buildings on the l...
見えているのは神田駿河台。後景中央にニコライ堂(明治24年完成)の丸屋根がはっきりと見える。一帯は、文部省、高等商業学校、東京大学、東京師範学校、東京女子師範学校などがある明治の文教地区である。Wha...
往事の浅草の活気を伝える芝居小屋の風景。服装から見て季節は冬であろう。人気役者らしい新門丑太郎の名前がのぼりに見える。A view of a theatre which conveys the act...
高島町遊郭の神風楼。「ネキタリン・ナンバー・ナイン」と呼ばれ、世界的に知られた。港崎郭にあった初代の伊勢楼から数えて三度の移転を経るが、写真は高島町2丁目にあった頃の三代目。明治4年(1871)から同...
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
左手に市谷御門の桝形があり、その前に架かっていた土橋である。中央より左手の丘陵上は尾張徳川家上屋敷。明治初年に取壊され、跡地には明治11年(1878)陸軍士官学校が建つ(現在は防衛庁)。丘陵右端には市...
2276と同様に仲見世入口(現雷門のある位置)から北に向いて写している。雷門から仁王門の間に並ぶ商店街を仲見世という。発端は近くの住民に浅草寺の清掃を頼んだ見返りに出店を許可したもの。明治18年(18...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。中央に見えている塔は、...
石山寺(いしやまでら)境内の本堂正面から撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。瓦葺の建物(蓮如堂)の奥にみえるのが本...
元治元年(1864)末、生麦事件に懲りた幕府は、外国人の足を東海道から遠ざけるため、横浜の東南方、根岸から本牧にかけて、外国人遊歩新道を開設した。沿道には外国人相手の茶屋が建っていた。これはそのうちの...
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32年(1899)の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。賑町(現伊勢佐木町3丁目)の賑...
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。左にみえる建物は松ヶ枝町(現伊...
火災の後、明治11年に再建された新富座。彩色された色も褪せ、映像はごく不鮮明。かろうじて建物の普請、看板、たたずむ人影、人力車などが判別できる。詳細は同一のものと思われる整理番号25-42によって知ら...
画面右の旗は、活動写真の旗であるから、明治30年(1897)後半以降のものである。電信柱の横桁が多いのは、明治40年(1907)前後の角座付近の写真にあり、その前後以外には見られないので、明治40年こ...
娘玉乗りで有名だった江川大盛館。玉乗り娘が並んでいる。浅草六区興行街は、浅草寺の日除地だった田圃が大池を開削した土で明治16年(1883)に埋め立てられ、明治半ばを過ぎると日本一の歓楽街になった。奥は...
画面左に見えるのは朝日座である。画面の真中に写っているのが角座であるが、角座の両隣に三階建ての建物が建つているが、これは明治34年(1901)のことである。The buildings on the l...
見えているのは神田駿河台。後景中央にニコライ堂(明治24年完成)の丸屋根がはっきりと見える。一帯は、文部省、高等商業学校、東京大学、東京師範学校、東京女子師範学校などがある明治の文教地区である。Wha...
往事の浅草の活気を伝える芝居小屋の風景。服装から見て季節は冬であろう。人気役者らしい新門丑太郎の名前がのぼりに見える。A view of a theatre which conveys the act...
高島町遊郭の神風楼。「ネキタリン・ナンバー・ナイン」と呼ばれ、世界的に知られた。港崎郭にあった初代の伊勢楼から数えて三度の移転を経るが、写真は高島町2丁目にあった頃の三代目。明治4年(1871)から同...
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
左手に市谷御門の桝形があり、その前に架かっていた土橋である。中央より左手の丘陵上は尾張徳川家上屋敷。明治初年に取壊され、跡地には明治11年(1878)陸軍士官学校が建つ(現在は防衛庁)。丘陵右端には市...
2276と同様に仲見世入口(現雷門のある位置)から北に向いて写している。雷門から仁王門の間に並ぶ商店街を仲見世という。発端は近くの住民に浅草寺の清掃を頼んだ見返りに出店を許可したもの。明治18年(18...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。中央に見えている塔は、...
石山寺(いしやまでら)境内の本堂正面から撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。瓦葺の建物(蓮如堂)の奥にみえるのが本...
元治元年(1864)末、生麦事件に懲りた幕府は、外国人の足を東海道から遠ざけるため、横浜の東南方、根岸から本牧にかけて、外国人遊歩新道を開設した。沿道には外国人相手の茶屋が建っていた。これはそのうちの...