石山寺(いしやまでら)境内の本堂正面から撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。瓦葺の建物(蓮如堂)の奥にみえるのが本堂で、承暦2年(1096)に焼失した後、再建された。The precincts of Ishiyamadera Temple seen from the front of the Main Hall . During the Heian Period, aristocratic women worshipped at the temple, and in later years it attracted many commoners as the 13th temple in the circuit of the 33 Holy Kannon temple of Western Japan. The Main Hall, just behind the tile-roofed Rennyodo, burned to the ground in 1096 and was later rebuilt
清水寺本堂、阿弥陀堂、奥ノ院を南苑より東に見上げる。左より奥ノ院・阿弥陀堂・本堂が並び、背後に音羽山をいただく。南苑には様々な庭木が植えられているが、庭園としてまだ未整備で、桜や楓が現在のように等間隔...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
大阪市西区北堀江の和光寺(わこうじ 1698創建)である。境内に阿弥陀池があり、推古天皇8年(600)本田善光(ほんだぜんこう)がこの池で如来像の出現をみて、信濃善光寺の本尊としたという。和光寺の本尊...
石山寺(いしやまでら)境内で撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。奥に見える建物は、本堂と蓮如堂。画面には、寺名の由...
西国三十三所観音霊場のひとつ。天平5年(733)に行基を導師として本尊の開眼供養をおこなったと伝えられている。仁王門から本堂へと至る登廊の両側に植えられた牡丹の花時には、数多くの花見客が訪れる。One...
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
石山寺本堂、蓮如堂を多宝塔南側参道より西に望む。参道には石畳が敷かれ、参道北側に石灯籠が建ち並ぶ。石灯籠の右方には珪灰岩が露出した斜面が見える。本堂は慶長7年(1602)の創建で、総檜皮葺で寄棟造であ...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
石山寺(いしやまでら)の月見亭あたりから眺める瀬田川の流れ。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。特にこの場所は近江八景(おうみは...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...
清水寺西門と三重塔を仁王門東側より東に見上げる。参道は右方の西門をくぐり三重塔へ至る石段と、左方の直接に三重塔へと至る石段に分かれている。西門西側の斜面には岸駒灯籠と呼ばれる灯籠群が建ち並ぶ。西門西門...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
清水寺本堂、阿弥陀堂、奥ノ院を南苑より東に見上げる。左より奥ノ院・阿弥陀堂・本堂が並び、背後に音羽山をいただく。南苑には様々な庭木が植えられているが、庭園としてまだ未整備で、桜や楓が現在のように等間隔...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
大阪市西区北堀江の和光寺(わこうじ 1698創建)である。境内に阿弥陀池があり、推古天皇8年(600)本田善光(ほんだぜんこう)がこの池で如来像の出現をみて、信濃善光寺の本尊としたという。和光寺の本尊...
石山寺(いしやまでら)境内で撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。奥に見える建物は、本堂と蓮如堂。画面には、寺名の由...
西国三十三所観音霊場のひとつ。天平5年(733)に行基を導師として本尊の開眼供養をおこなったと伝えられている。仁王門から本堂へと至る登廊の両側に植えられた牡丹の花時には、数多くの花見客が訪れる。One...
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
石山寺本堂、蓮如堂を多宝塔南側参道より西に望む。参道には石畳が敷かれ、参道北側に石灯籠が建ち並ぶ。石灯籠の右方には珪灰岩が露出した斜面が見える。本堂は慶長7年(1602)の創建で、総檜皮葺で寄棟造であ...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
石山寺(いしやまでら)の月見亭あたりから眺める瀬田川の流れ。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。特にこの場所は近江八景(おうみは...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
元禄年間(1688~1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596~1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜っ...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...
清水寺西門と三重塔を仁王門東側より東に見上げる。参道は右方の西門をくぐり三重塔へ至る石段と、左方の直接に三重塔へと至る石段に分かれている。西門西側の斜面には岸駒灯籠と呼ばれる灯籠群が建ち並ぶ。西門西門...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
清水寺本堂、阿弥陀堂、奥ノ院を南苑より東に見上げる。左より奥ノ院・阿弥陀堂・本堂が並び、背後に音羽山をいただく。南苑には様々な庭木が植えられているが、庭園としてまだ未整備で、桜や楓が現在のように等間隔...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
大阪市西区北堀江の和光寺(わこうじ 1698創建)である。境内に阿弥陀池があり、推古天皇8年(600)本田善光(ほんだぜんこう)がこの池で如来像の出現をみて、信濃善光寺の本尊としたという。和光寺の本尊...