旧中山道碓氷峠東の子持山に源を発する碓氷川。松井田宿の家並みが見える。手前中央にあるのは壊れた橋脚であろうか。写真右手前には竿をたらす釣り人がひとり。碓氷川は現在でも鮎釣場として有名である。The Usui River which originates from Mt. Komochi to the east of Usui range on the former Nakasendo. The houses of Matsuida juku can be seen. The center fore may be a broken bridge. A man fishes with his pole. Usui River is famous for fishing ayu (sweetfish) to the present day
上流に向けて上野彦馬邸周辺の中島川を写している。ベアトが同じアングルで撮影した写真がある。(整理番号28-33)。左手奥の白壁の家が彦馬邸である。The Nakashima River near th...
日本三大急流の一つである木曽川に架かる本橋が、画面中央に小さく写っている。中山道の宿駅、上松宿の近辺と思われる。上松周辺の村々は度重なる大火に見舞われたが、宿場はそのつど再建された。The Hon B...
元治元年(1864)頃、飽の浦を訪れたベアトは、この入江にそそぎこむ大日川の石橋と人物を撮影。幕末の長崎郊外を撮影したものとして珍しい写真である。川の男性は魚を釣っているのだろうか。When Beat...
坂本宿(松井田町)は峠の東麓にあり、標高500メートルのここから峠までの600メートルは450メートルを登る難所。幅15メートルの道沿いに宿屋が立ち並ぶ。正面奥に見えるこんもりとした山は刎石山。この尾...
中山道中、岩村田(現長野県佐久市)の風景。手前は用水か。街道を行く多くの旅人が見える。岩村田宿では中山道の他、善光寺道、甲州道、下仁田道などが交わっており、物資輸送上重要な地位を占めていた。A vie...
中山道宿駅の一つ、福島宿が置かれていた集落の風景。写真中央を蛇行して流れるのは、木曽川である。宿内には旅籠や茶屋などがあった他、檜物細工、塗物などの多くの職人が活動していた。A view of the...
和田宿付近の集落。防風用の石置屋根造りの家屋が建ち並び、村人の姿も見える。和田宿は中仙道中最も険しい和田峠を控え、古くから交通の要地であった。しかし明治以降は幹線道路から外れたため、発展を望めなくなっ...
群馬県松井田町坂本と長野県軽井沢町軽井沢との境にある旧中山道の峠。信州を経由して畿内と関東を結ぶ交通の要衝。難所であったため明治17年碓氷新道開削、19年開通。右手の茶屋の軒先に女中らしき女性が3人こ...
五街道の一つ、中山道から見た下諏訪集落。下諏訪は諏訪湖の東北岸に位置し、八島高原を背にして開かれた集落である。宿内に温泉が多く、湯の町とも呼ばれた。甲州街道の終点でもある。Shimosuwa vill...
大浦川右岸の居留地建物群。丘の上のピンクの建物は東山学院。川沿いの建物の看板には「M. H. Cook, SAIL MAKER, Cooks HOTEL」と読める。この一帯には外国人には外国人のバーや...
中山道の難所である鳥居峠と、その麓の奈良井村の風景。中央の河原には、村人の姿も見える。同村が中山道の宿駅に定められたのは慶長7年。高冷地のため農業には適さず、工芸を主たる生業とした。The diffi...
中山道途中、千曲川右岸に位置する塩名田宿と街道を繋ぐ橋。この橋を管理し交通を確保するのが同宿の責務であった。千曲川の急流のため橋の流出が相次いだという。当時の船つなぎ石が現存している。A bridge...
中山道の宿駅の一つであった贄川村の様子。中央下には2人の人物。同村は山間地のため耕地が乏しく、農業の合間に商売をする者も多かった。明治22年の町村制施行の際、奈良井村と合併し、新村名を楢川村とした。A...
F.ベアトアルバムの写真である。相模川(馬入川)の支流中津川の中津川渓谷の宮ヶ瀬の風景である。当時、横浜から馬に乗って一日で行ける景勝の地であった。A photo from the album of ...
木曽川を背景として、小野村の集落の一部をなす家屋が写されている。軒下には、荷物を担いでいるとおぼしき2人の人影も見える。小野村は当初中山道の宿場であったが、後に道筋が変更されたため、諏訪・木曽への近道...
上流に向けて上野彦馬邸周辺の中島川を写している。ベアトが同じアングルで撮影した写真がある。(整理番号28-33)。左手奥の白壁の家が彦馬邸である。The Nakashima River near th...
日本三大急流の一つである木曽川に架かる本橋が、画面中央に小さく写っている。中山道の宿駅、上松宿の近辺と思われる。上松周辺の村々は度重なる大火に見舞われたが、宿場はそのつど再建された。The Hon B...
元治元年(1864)頃、飽の浦を訪れたベアトは、この入江にそそぎこむ大日川の石橋と人物を撮影。幕末の長崎郊外を撮影したものとして珍しい写真である。川の男性は魚を釣っているのだろうか。When Beat...
坂本宿(松井田町)は峠の東麓にあり、標高500メートルのここから峠までの600メートルは450メートルを登る難所。幅15メートルの道沿いに宿屋が立ち並ぶ。正面奥に見えるこんもりとした山は刎石山。この尾...
中山道中、岩村田(現長野県佐久市)の風景。手前は用水か。街道を行く多くの旅人が見える。岩村田宿では中山道の他、善光寺道、甲州道、下仁田道などが交わっており、物資輸送上重要な地位を占めていた。A vie...
中山道宿駅の一つ、福島宿が置かれていた集落の風景。写真中央を蛇行して流れるのは、木曽川である。宿内には旅籠や茶屋などがあった他、檜物細工、塗物などの多くの職人が活動していた。A view of the...
和田宿付近の集落。防風用の石置屋根造りの家屋が建ち並び、村人の姿も見える。和田宿は中仙道中最も険しい和田峠を控え、古くから交通の要地であった。しかし明治以降は幹線道路から外れたため、発展を望めなくなっ...
群馬県松井田町坂本と長野県軽井沢町軽井沢との境にある旧中山道の峠。信州を経由して畿内と関東を結ぶ交通の要衝。難所であったため明治17年碓氷新道開削、19年開通。右手の茶屋の軒先に女中らしき女性が3人こ...
五街道の一つ、中山道から見た下諏訪集落。下諏訪は諏訪湖の東北岸に位置し、八島高原を背にして開かれた集落である。宿内に温泉が多く、湯の町とも呼ばれた。甲州街道の終点でもある。Shimosuwa vill...
大浦川右岸の居留地建物群。丘の上のピンクの建物は東山学院。川沿いの建物の看板には「M. H. Cook, SAIL MAKER, Cooks HOTEL」と読める。この一帯には外国人には外国人のバーや...
中山道の難所である鳥居峠と、その麓の奈良井村の風景。中央の河原には、村人の姿も見える。同村が中山道の宿駅に定められたのは慶長7年。高冷地のため農業には適さず、工芸を主たる生業とした。The diffi...
中山道途中、千曲川右岸に位置する塩名田宿と街道を繋ぐ橋。この橋を管理し交通を確保するのが同宿の責務であった。千曲川の急流のため橋の流出が相次いだという。当時の船つなぎ石が現存している。A bridge...
中山道の宿駅の一つであった贄川村の様子。中央下には2人の人物。同村は山間地のため耕地が乏しく、農業の合間に商売をする者も多かった。明治22年の町村制施行の際、奈良井村と合併し、新村名を楢川村とした。A...
F.ベアトアルバムの写真である。相模川(馬入川)の支流中津川の中津川渓谷の宮ヶ瀬の風景である。当時、横浜から馬に乗って一日で行ける景勝の地であった。A photo from the album of ...
木曽川を背景として、小野村の集落の一部をなす家屋が写されている。軒下には、荷物を担いでいるとおぼしき2人の人影も見える。小野村は当初中山道の宿場であったが、後に道筋が変更されたため、諏訪・木曽への近道...
上流に向けて上野彦馬邸周辺の中島川を写している。ベアトが同じアングルで撮影した写真がある。(整理番号28-33)。左手奥の白壁の家が彦馬邸である。The Nakashima River near th...
日本三大急流の一つである木曽川に架かる本橋が、画面中央に小さく写っている。中山道の宿駅、上松宿の近辺と思われる。上松周辺の村々は度重なる大火に見舞われたが、宿場はそのつど再建された。The Hon B...
元治元年(1864)頃、飽の浦を訪れたベアトは、この入江にそそぎこむ大日川の石橋と人物を撮影。幕末の長崎郊外を撮影したものとして珍しい写真である。川の男性は魚を釣っているのだろうか。When Beat...