国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、塔の沢の渓谷付近である。宮の下富士屋ホテルの山口仙之助が、自己資金と底倉・宮城野等近隣の村や有志の援助を得て開鑿したもので箱根の発展に大きく貢献した。This road was the forerunner of national road No.1 between Yumoto and Miyanoshita, near the valley in Tonosawa. Yamaguchi Senosuke of the Miyanoshita Fujiya Hotel initiated the construction of the road with capital including his own and with support from nearby villages such as Sokokura and Miyagino. The road contributed greatly to the development of Hakone
岩淵は富士川左岸に位置する幕府領。手前は富士川の渡し船であろうか?慶長7年幕府から渡船役が課され、渡船役持ち10名によって運営されたという。遠く、橋にかかる木製の橋が見える。Iwabuchi was ...
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発...
塔の沢温泉の旅館福住樓の中庭の写真である。女中さんの姿も同旅館の他の写真と同一である。但し、前身の玉の湯旅館の可能性もある。現在、改築して架け橋は無いが、全体の構図は現在も継承され、ほぼそのまま残って...
現在の箱根観光会館跡地辺りから早川渓谷の上流を見上げた構図。正面の建物は、明治20年頃開業した新玉の湯である。塔ノ沢村の総代堀貞蔵が、玉の湯旅館を読売新聞社主子安峻に譲渡し、新たに建設したもの。左手の...
現在の国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、湯本の旭日橋の少し上流の辺りである。左の川は早川。電線が見えるので、湯本に全国2番目の水力発電所が作られ電灯が点いた明治25年以降と分かる。Th...
大平台と塔ノ沢のほぼ中間点で早川が大きく左折する辺りの情景。右上の道路は、明治二十年(1887)7月に開通した塔ノ沢・宮ノ下間の車道で現在の国道一号線。右側の山は湯坂山(ゆさかやま)、左側の山は明星ヶ...
F.ベアトアルバムの写真である。相模川(馬入川)の支流中津川の中津川渓谷の宮ヶ瀬の風景である。当時、横浜から馬に乗って一日で行ける景勝の地であった。A photo from the album of ...
旧東海道(現在の国道一号線)の小田原市上板橋付近から、入生田・風祭、箱根の山崎方面を眺めた写真。現在も松が同様な様子で残り、山の形も変わらない。左の川は早川。松が切り倒されているのは、道路拡幅のためか...
塩尻峠は塩嶺とも呼ばれ、標高約1000m。眼下には塩尻宿を初め周辺の町並みと諏訪湖が、左手遠くには八ヶ岳や霧ヶ峰が望まれる。晴天の日には正面奧に富士山の姿も見えるはずである。Shiojiri rang...
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。遠くの山は双子山である。現在、写真の松は残っていない。電柱が見え、湯本の電化された明治25年以降と判断される。The stone pav...
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海...
岩淵は富士川左岸に位置する幕府領。慶長7年幕府から渡船役が課され、渡船役持ち10名によって運営されたという。火の見櫓であろうか、あるいは船や波を見るためであろうか、中央に高い梯子が見える。Iwabuc...
中山道の宿場町(詳細不明)の町並み。道の両側に立ち並ぶのいくつかは、紋章を付した看板を掲げている。木曽路とも呼ばれる中山道は、家康によって制定された五街道の一つだっが、明治維新以降は衰退の一途を辿った...
向山(むこうやま)から見た宮ノ下と堂ヶ島。宮ノ下には富士屋ホテルと奈良屋ホテルが見え、明治16年(1883)の宮ノ下大火以後、富士屋ホテル本館竣工後の明治24年(1891)以降の撮影と分かる。堂ヶ島へ...
宮城野から宮の下へ向かう途中の木賀の道で、現在の国道138号線。轍の跡は、馬力や荷車のものであろう。左の川は早川で、現在はかなり深い峡谷となっている。中央のお堂は、木賀不動尊で、人々の信仰を集めた。T...
岩淵は富士川左岸に位置する幕府領。手前は富士川の渡し船であろうか?慶長7年幕府から渡船役が課され、渡船役持ち10名によって運営されたという。遠く、橋にかかる木製の橋が見える。Iwabuchi was ...
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発...
塔の沢温泉の旅館福住樓の中庭の写真である。女中さんの姿も同旅館の他の写真と同一である。但し、前身の玉の湯旅館の可能性もある。現在、改築して架け橋は無いが、全体の構図は現在も継承され、ほぼそのまま残って...
現在の箱根観光会館跡地辺りから早川渓谷の上流を見上げた構図。正面の建物は、明治20年頃開業した新玉の湯である。塔ノ沢村の総代堀貞蔵が、玉の湯旅館を読売新聞社主子安峻に譲渡し、新たに建設したもの。左手の...
現在の国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、湯本の旭日橋の少し上流の辺りである。左の川は早川。電線が見えるので、湯本に全国2番目の水力発電所が作られ電灯が点いた明治25年以降と分かる。Th...
大平台と塔ノ沢のほぼ中間点で早川が大きく左折する辺りの情景。右上の道路は、明治二十年(1887)7月に開通した塔ノ沢・宮ノ下間の車道で現在の国道一号線。右側の山は湯坂山(ゆさかやま)、左側の山は明星ヶ...
F.ベアトアルバムの写真である。相模川(馬入川)の支流中津川の中津川渓谷の宮ヶ瀬の風景である。当時、横浜から馬に乗って一日で行ける景勝の地であった。A photo from the album of ...
旧東海道(現在の国道一号線)の小田原市上板橋付近から、入生田・風祭、箱根の山崎方面を眺めた写真。現在も松が同様な様子で残り、山の形も変わらない。左の川は早川。松が切り倒されているのは、道路拡幅のためか...
塩尻峠は塩嶺とも呼ばれ、標高約1000m。眼下には塩尻宿を初め周辺の町並みと諏訪湖が、左手遠くには八ヶ岳や霧ヶ峰が望まれる。晴天の日には正面奧に富士山の姿も見えるはずである。Shiojiri rang...
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。遠くの山は双子山である。現在、写真の松は残っていない。電柱が見え、湯本の電化された明治25年以降と判断される。The stone pav...
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海...
岩淵は富士川左岸に位置する幕府領。慶長7年幕府から渡船役が課され、渡船役持ち10名によって運営されたという。火の見櫓であろうか、あるいは船や波を見るためであろうか、中央に高い梯子が見える。Iwabuc...
中山道の宿場町(詳細不明)の町並み。道の両側に立ち並ぶのいくつかは、紋章を付した看板を掲げている。木曽路とも呼ばれる中山道は、家康によって制定された五街道の一つだっが、明治維新以降は衰退の一途を辿った...
向山(むこうやま)から見た宮ノ下と堂ヶ島。宮ノ下には富士屋ホテルと奈良屋ホテルが見え、明治16年(1883)の宮ノ下大火以後、富士屋ホテル本館竣工後の明治24年(1891)以降の撮影と分かる。堂ヶ島へ...
宮城野から宮の下へ向かう途中の木賀の道で、現在の国道138号線。轍の跡は、馬力や荷車のものであろう。左の川は早川で、現在はかなり深い峡谷となっている。中央のお堂は、木賀不動尊で、人々の信仰を集めた。T...
岩淵は富士川左岸に位置する幕府領。手前は富士川の渡し船であろうか?慶長7年幕府から渡船役が課され、渡船役持ち10名によって運営されたという。遠く、橋にかかる木製の橋が見える。Iwabuchi was ...
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発...
塔の沢温泉の旅館福住樓の中庭の写真である。女中さんの姿も同旅館の他の写真と同一である。但し、前身の玉の湯旅館の可能性もある。現在、改築して架け橋は無いが、全体の構図は現在も継承され、ほぼそのまま残って...