大平台と塔ノ沢のほぼ中間点で早川が大きく左折する辺りの情景。右上の道路は、明治二十年(1887)7月に開通した塔ノ沢・宮ノ下間の車道で現在の国道一号線。右側の山は湯坂山(ゆさかやま)、左側の山は明星ヶ岳(みょうじょうがたけ)の山裾、正面の山は白銀山(しろがねやま)の尾根。This is the point where Hayakawa River flows to the left, about the halfway between Ohiradai and Tonosawa. The street on the upper right opened for car traffic between Tonosawa and Miyanoshita in July, 1887. It is the present National Route 1. The mountain on the right is Yusakayama, the one on the left is the foot of Myojogadake, and in the centre is the ridge of Shiroganeyama
御嵩新道は、御嵩~大井間に中山道を通すために慶長7年(1602)に着工されて出来た新道。途中、大湫(おおくて)宿、細久手宿が設けられるが、琵琶峠、十三峠など難所がある。The Mitake Shind...
向山(むこうやま)から見た宮ノ下と堂ヶ島。宮ノ下には富士屋ホテルと奈良屋ホテルが見え、明治16年(1883)の宮ノ下大火以後、富士屋ホテル本館竣工後の明治24年(1891)以降の撮影と分かる。堂ヶ島へ...
明治16年(1883)の宮ノ下大火後、再建・整備された宮ノ下温泉。左の大きな建物は明治24年(1891)竣工の富士屋ホテル本館。右の白亜の洋館は明治20年(1887)完成した奈良屋ホテル。左手の道路は...
整理番号5-11のスライド版。宮の下と宮城野を結ぶ道で、現在の国道138号線の起点付近である。左の川は、早川。明治25年の大火前は、箱根でも有名な温泉街で旅館が軒を並べていた。紅葉の名所としても知られ...
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、...
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信...
宮ノ下と木賀温泉の間の木賀の桟道辺りから見た早川の流れ。木の橋は、現在の早川遊歩道の東京電力川久保発電所近くの橋に相当するものと思われる。左の木陰に建物の屋根が見えるが、何に相当するか、よく分からない...
現在の宮城野橋から100メートルほど下流(蕎麦屋みやび〔雅美〕付近)より見た、早川の流れと宮城野。今でも同様な大きな岩と樹群れが存在する。左端の白い大岩は現在は壊され、その位置に建物が建ち、その左横を...
浦上から時津に至る、いわゆる時津街道の途中の道。左上に見える岩は「長崎名勝図絵」にも画かれた有名な爛鯖巌(さばくさらかしいわ)。現在も西彼杵郡時津町元村郷に現存する。This road is a pa...
旧東海道(現在の国道一号線)の小田原市上板橋付近から、入生田・風祭、箱根の山崎方面を眺めた写真。現在も松が同様な様子で残り、山の形も変わらない。左の川は早川。松が切り倒されているのは、道路拡幅のためか...
湯元への道とあるが具体的な場所は不明である。実際に撮影された場所が奥日光の湯元温泉への道中であるならば、中禅寺湖畔沿いの道か、もしくは戦場ヶ原を通り過ぎて、湯元温泉に至る付近のいずれかと思われる。菅笠...
馬返よりつづら折の坂を経て中禅寺に至る中禅寺道は険しい男体山の谷筋を通る。河原道に電柱が立っている。Chuzenjido leads to Chuzenji from Umagaeshi to the...
国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、塔の沢の渓谷付近である。宮の下富士屋ホテルの山口仙之助が、自己資金と底倉・宮城野等近隣の村や有志の援助を得て開鑿したもので箱根の発展に大きく貢献した。...
明治13年(1880)の小林清親画「箱根底倉湯本萬年橋」に描かれた蛇骨川(じゃこつがわ)と同じ場所を写したもの。アングルから言って萬年橋の上から撮影したとすれば、橋が架設された明治6年(1873)から...
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海...
御嵩新道は、御嵩~大井間に中山道を通すために慶長7年(1602)に着工されて出来た新道。途中、大湫(おおくて)宿、細久手宿が設けられるが、琵琶峠、十三峠など難所がある。The Mitake Shind...
向山(むこうやま)から見た宮ノ下と堂ヶ島。宮ノ下には富士屋ホテルと奈良屋ホテルが見え、明治16年(1883)の宮ノ下大火以後、富士屋ホテル本館竣工後の明治24年(1891)以降の撮影と分かる。堂ヶ島へ...
明治16年(1883)の宮ノ下大火後、再建・整備された宮ノ下温泉。左の大きな建物は明治24年(1891)竣工の富士屋ホテル本館。右の白亜の洋館は明治20年(1887)完成した奈良屋ホテル。左手の道路は...
整理番号5-11のスライド版。宮の下と宮城野を結ぶ道で、現在の国道138号線の起点付近である。左の川は、早川。明治25年の大火前は、箱根でも有名な温泉街で旅館が軒を並べていた。紅葉の名所としても知られ...
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、...
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信...
宮ノ下と木賀温泉の間の木賀の桟道辺りから見た早川の流れ。木の橋は、現在の早川遊歩道の東京電力川久保発電所近くの橋に相当するものと思われる。左の木陰に建物の屋根が見えるが、何に相当するか、よく分からない...
現在の宮城野橋から100メートルほど下流(蕎麦屋みやび〔雅美〕付近)より見た、早川の流れと宮城野。今でも同様な大きな岩と樹群れが存在する。左端の白い大岩は現在は壊され、その位置に建物が建ち、その左横を...
浦上から時津に至る、いわゆる時津街道の途中の道。左上に見える岩は「長崎名勝図絵」にも画かれた有名な爛鯖巌(さばくさらかしいわ)。現在も西彼杵郡時津町元村郷に現存する。This road is a pa...
旧東海道(現在の国道一号線)の小田原市上板橋付近から、入生田・風祭、箱根の山崎方面を眺めた写真。現在も松が同様な様子で残り、山の形も変わらない。左の川は早川。松が切り倒されているのは、道路拡幅のためか...
湯元への道とあるが具体的な場所は不明である。実際に撮影された場所が奥日光の湯元温泉への道中であるならば、中禅寺湖畔沿いの道か、もしくは戦場ヶ原を通り過ぎて、湯元温泉に至る付近のいずれかと思われる。菅笠...
馬返よりつづら折の坂を経て中禅寺に至る中禅寺道は険しい男体山の谷筋を通る。河原道に電柱が立っている。Chuzenjido leads to Chuzenji from Umagaeshi to the...
国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、塔の沢の渓谷付近である。宮の下富士屋ホテルの山口仙之助が、自己資金と底倉・宮城野等近隣の村や有志の援助を得て開鑿したもので箱根の発展に大きく貢献した。...
明治13年(1880)の小林清親画「箱根底倉湯本萬年橋」に描かれた蛇骨川(じゃこつがわ)と同じ場所を写したもの。アングルから言って萬年橋の上から撮影したとすれば、橋が架設された明治6年(1873)から...
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海...
御嵩新道は、御嵩~大井間に中山道を通すために慶長7年(1602)に着工されて出来た新道。途中、大湫(おおくて)宿、細久手宿が設けられるが、琵琶峠、十三峠など難所がある。The Mitake Shind...
向山(むこうやま)から見た宮ノ下と堂ヶ島。宮ノ下には富士屋ホテルと奈良屋ホテルが見え、明治16年(1883)の宮ノ下大火以後、富士屋ホテル本館竣工後の明治24年(1891)以降の撮影と分かる。堂ヶ島へ...
明治16年(1883)の宮ノ下大火後、再建・整備された宮ノ下温泉。左の大きな建物は明治24年(1891)竣工の富士屋ホテル本館。右の白亜の洋館は明治20年(1887)完成した奈良屋ホテル。左手の道路は...