宮城野から宮の下へ向かう途中の木賀の道で、現在の国道138号線。轍の跡は、馬力や荷車のものであろう。左の川は早川で、現在はかなり深い峡谷となっている。中央のお堂は、木賀不動尊で、人々の信仰を集めた。The road in Kiga on the way from Miyagino to Miyanoshita, the present National Route 138. The burrows are made by carriages and carts. The river is Haya River, and at present is a deep valley. The hall in the middle is the Kiga Fudoson and was the centre of faith for the people
木賀温泉中、亀屋は最大の旅館で、整備された庭も有名であった。写真では、噴水等も見られる。明治25年の大火で全焼し、再建されなかった。40年後再訪した仏国のルボン将軍は荒廃を嘆き、今は碑文となって残る。...
旧東海道(現在の国道一号線)の小田原市上板橋付近から、入生田・風祭、箱根の山崎方面を眺めた写真。現在も松が同様な様子で残り、山の形も変わらない。左の川は早川。松が切り倒されているのは、道路拡幅のためか...
御嵩新道は、御嵩~大井間に中山道を通すために慶長7年(1602)に着工されて出来た新道。途中、大湫(おおくて)宿、細久手宿が設けられるが、琵琶峠、十三峠など難所がある。The Mitake Shind...
整理番号5-11のスライド版。宮の下と宮城野を結ぶ道で、現在の国道138号線の起点付近である。左の川は、早川。明治25年の大火前は、箱根でも有名な温泉街で旅館が軒を並べていた。紅葉の名所としても知られ...
大平台と塔ノ沢のほぼ中間点で早川が大きく左折する辺りの情景。右上の道路は、明治二十年(1887)7月に開通した塔ノ沢・宮ノ下間の車道で現在の国道一号線。右側の山は湯坂山(ゆさかやま)、左側の山は明星ヶ...
長崎から茂木に向かう江戸期からの街道側の河原。正覚寺下から八剣神社前を経て田上に至り、さらに転石、柳山を経て茂木港に達する。写真は田上から下り終えた柳山付近と思われる。渓流が綺麗である。道路は明治18...
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信...
明治時代の茂木は居留外国人の保養地として、また、雲仙や熊本方面への港として賑わった。そのために茂木街道は、明治18年(1885)、人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修された。写真は田上峠に向か...
浦上から時津に至る、いわゆる時津街道の途中の道。左上に見える岩は「長崎名勝図絵」にも画かれた有名な爛鯖巌(さばくさらかしいわ)。現在も西彼杵郡時津町元村郷に現存する。This road is a pa...
木賀温泉の亀屋周辺の様子。亀屋の三層の建物神代楼が中央に見える。また、明治22年(1889)開通の宮ノ下・宮城野間の新道に向いた亀屋の玄関が望まれるので、明治22年から、木賀温泉街が大火で焼失する明治...
現在の宮城野橋から100メートルほど下流(蕎麦屋みやび〔雅美〕付近)より見た、早川の流れと宮城野。今でも同様な大きな岩と樹群れが存在する。左端の白い大岩は現在は壊され、その位置に建物が建ち、その左横を...
湯元への道とあるが具体的な場所は不明である。実際に撮影された場所が奥日光の湯元温泉への道中であるならば、中禅寺湖畔沿いの道か、もしくは戦場ヶ原を通り過ぎて、湯元温泉に至る付近のいずれかと思われる。菅笠...
中禅寺道のつづら折に山駕籠と旅人が立っている。 明治20年代につづら折の新道ができて山駕籠だけでなく人力車も登れるようになっった。 それまでは山駕籠も難渋する山道であった。A palanquin an...
国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、塔の沢の渓谷付近である。宮の下富士屋ホテルの山口仙之助が、自己資金と底倉・宮城野等近隣の村や有志の援助を得て開鑿したもので箱根の発展に大きく貢献した。...
宮ノ下と木賀温泉の間の木賀の桟道辺りから見た早川の流れ。木の橋は、現在の早川遊歩道の東京電力川久保発電所近くの橋に相当するものと思われる。左の木陰に建物の屋根が見えるが、何に相当するか、よく分からない...
木賀温泉中、亀屋は最大の旅館で、整備された庭も有名であった。写真では、噴水等も見られる。明治25年の大火で全焼し、再建されなかった。40年後再訪した仏国のルボン将軍は荒廃を嘆き、今は碑文となって残る。...
旧東海道(現在の国道一号線)の小田原市上板橋付近から、入生田・風祭、箱根の山崎方面を眺めた写真。現在も松が同様な様子で残り、山の形も変わらない。左の川は早川。松が切り倒されているのは、道路拡幅のためか...
御嵩新道は、御嵩~大井間に中山道を通すために慶長7年(1602)に着工されて出来た新道。途中、大湫(おおくて)宿、細久手宿が設けられるが、琵琶峠、十三峠など難所がある。The Mitake Shind...
整理番号5-11のスライド版。宮の下と宮城野を結ぶ道で、現在の国道138号線の起点付近である。左の川は、早川。明治25年の大火前は、箱根でも有名な温泉街で旅館が軒を並べていた。紅葉の名所としても知られ...
大平台と塔ノ沢のほぼ中間点で早川が大きく左折する辺りの情景。右上の道路は、明治二十年(1887)7月に開通した塔ノ沢・宮ノ下間の車道で現在の国道一号線。右側の山は湯坂山(ゆさかやま)、左側の山は明星ヶ...
長崎から茂木に向かう江戸期からの街道側の河原。正覚寺下から八剣神社前を経て田上に至り、さらに転石、柳山を経て茂木港に達する。写真は田上から下り終えた柳山付近と思われる。渓流が綺麗である。道路は明治18...
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信...
明治時代の茂木は居留外国人の保養地として、また、雲仙や熊本方面への港として賑わった。そのために茂木街道は、明治18年(1885)、人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修された。写真は田上峠に向か...
浦上から時津に至る、いわゆる時津街道の途中の道。左上に見える岩は「長崎名勝図絵」にも画かれた有名な爛鯖巌(さばくさらかしいわ)。現在も西彼杵郡時津町元村郷に現存する。This road is a pa...
木賀温泉の亀屋周辺の様子。亀屋の三層の建物神代楼が中央に見える。また、明治22年(1889)開通の宮ノ下・宮城野間の新道に向いた亀屋の玄関が望まれるので、明治22年から、木賀温泉街が大火で焼失する明治...
現在の宮城野橋から100メートルほど下流(蕎麦屋みやび〔雅美〕付近)より見た、早川の流れと宮城野。今でも同様な大きな岩と樹群れが存在する。左端の白い大岩は現在は壊され、その位置に建物が建ち、その左横を...
湯元への道とあるが具体的な場所は不明である。実際に撮影された場所が奥日光の湯元温泉への道中であるならば、中禅寺湖畔沿いの道か、もしくは戦場ヶ原を通り過ぎて、湯元温泉に至る付近のいずれかと思われる。菅笠...
中禅寺道のつづら折に山駕籠と旅人が立っている。 明治20年代につづら折の新道ができて山駕籠だけでなく人力車も登れるようになっった。 それまでは山駕籠も難渋する山道であった。A palanquin an...
国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、塔の沢の渓谷付近である。宮の下富士屋ホテルの山口仙之助が、自己資金と底倉・宮城野等近隣の村や有志の援助を得て開鑿したもので箱根の発展に大きく貢献した。...
宮ノ下と木賀温泉の間の木賀の桟道辺りから見た早川の流れ。木の橋は、現在の早川遊歩道の東京電力川久保発電所近くの橋に相当するものと思われる。左の木陰に建物の屋根が見えるが、何に相当するか、よく分からない...
木賀温泉中、亀屋は最大の旅館で、整備された庭も有名であった。写真では、噴水等も見られる。明治25年の大火で全焼し、再建されなかった。40年後再訪した仏国のルボン将軍は荒廃を嘆き、今は碑文となって残る。...
旧東海道(現在の国道一号線)の小田原市上板橋付近から、入生田・風祭、箱根の山崎方面を眺めた写真。現在も松が同様な様子で残り、山の形も変わらない。左の川は早川。松が切り倒されているのは、道路拡幅のためか...
御嵩新道は、御嵩~大井間に中山道を通すために慶長7年(1602)に着工されて出来た新道。途中、大湫(おおくて)宿、細久手宿が設けられるが、琵琶峠、十三峠など難所がある。The Mitake Shind...