真光寺境内一画の仏像。同寺は享保14年の火災、昭和20年の戦災で全伽藍を焼失したが、その後再建されて現在に至っている。The Buddha in a corner of Shinkoji Temple. The temple was destroyed by fire in 1729 and again during World WarⅡ but has since been restored
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
英語で「東京芝の金仏」と説明されている。東京芝増上寺の墓地にあったと思われる大仏である。側の卒塔婆の高さからみて2~3メートルのスケールか。The English caption reads "Gol...
明治中期から後期の、能福寺(現兵庫区)の大仏。能福寺は天台宗の名刹で、平安時代末期にこの地で日宋貿易を行った平清盛とのゆかりも深い。開港以来のキリスト教の隆盛に対する仏教の復興運動を背景に、この毘盧遮...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
館林の高瀬善兵衛が太田久右衛門正儀(まさよし)に依頼して制作し、貞亨4年(1687)に浅草寺に奉納。蓮台を含め、高さ2.5mの坐像である。通常は濡仏(ぬれぼとけ)の名で呼ばれている。大正12年(192...
撮影年代等未詳。大仏殿については史料が少なく、建武元年(1334)と応安2年(1369)等に倒壊の記事があるにとどまる。そして、明応7年(1498)の地震の後は再建されたという記録がないので、これ以降...
善光寺(現在の長野市元善町)の本堂正面の図。善光寺は過去12回に渡り火災にあっているが、そのつど再建されて現在に至っている。本被写体は、宝永4年(1707)に再建されたものと思われる。The faca...
日光浄光寺は旧日光田母沢御用邸と大谷川の間にある。その境内中央に佐野天明金屋町の鋳物師の作った仏像2体と墓一基がある。境内に移設される前は杉の木立ちの前に三つ並んでいた事がわかる。Jokoji Tem...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
関東大震災で大仏は崩壊し、 現在は首だけが仏塔の脇に埋め込まれている。 整理番号14-36の写真にある光輪がないのは、 脱落したのだろうか。The great Buddha was destroyed...
山中に放置されたままの石仏である。苔むし、侵食されてはいるが、その円満具足の阿弥陀仏の顔は、かつての面影をしのばせる。前面に転がる石塔もいたましい。A stone Buddha left in the...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
英語で「東京芝の金仏」と説明されている。東京芝増上寺の墓地にあったと思われる大仏である。側の卒塔婆の高さからみて2~3メートルのスケールか。The English caption reads "Gol...
明治中期から後期の、能福寺(現兵庫区)の大仏。能福寺は天台宗の名刹で、平安時代末期にこの地で日宋貿易を行った平清盛とのゆかりも深い。開港以来のキリスト教の隆盛に対する仏教の復興運動を背景に、この毘盧遮...
真光寺の大仏。宝暦10年 (1760) 9月に建立された、青銅の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。寺の門前に東向きに座し、高さは1丈6尺(4.8mあまり) 、大阪の長谷川久左衛門作。大仏の後ろに鐘楼(明和...
館林の高瀬善兵衛が太田久右衛門正儀(まさよし)に依頼して制作し、貞亨4年(1687)に浅草寺に奉納。蓮台を含め、高さ2.5mの坐像である。通常は濡仏(ぬれぼとけ)の名で呼ばれている。大正12年(192...
撮影年代等未詳。大仏殿については史料が少なく、建武元年(1334)と応安2年(1369)等に倒壊の記事があるにとどまる。そして、明応7年(1498)の地震の後は再建されたという記録がないので、これ以降...
善光寺(現在の長野市元善町)の本堂正面の図。善光寺は過去12回に渡り火災にあっているが、そのつど再建されて現在に至っている。本被写体は、宝永4年(1707)に再建されたものと思われる。The faca...
日光浄光寺は旧日光田母沢御用邸と大谷川の間にある。その境内中央に佐野天明金屋町の鋳物師の作った仏像2体と墓一基がある。境内に移設される前は杉の木立ちの前に三つ並んでいた事がわかる。Jokoji Tem...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
関東大震災で大仏は崩壊し、 現在は首だけが仏塔の脇に埋め込まれている。 整理番号14-36の写真にある光輪がないのは、 脱落したのだろうか。The great Buddha was destroyed...
山中に放置されたままの石仏である。苔むし、侵食されてはいるが、その円満具足の阿弥陀仏の顔は、かつての面影をしのばせる。前面に転がる石塔もいたましい。A stone Buddha left in the...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
英語で「東京芝の金仏」と説明されている。東京芝増上寺の墓地にあったと思われる大仏である。側の卒塔婆の高さからみて2~3メートルのスケールか。The English caption reads "Gol...
明治中期から後期の、能福寺(現兵庫区)の大仏。能福寺は天台宗の名刹で、平安時代末期にこの地で日宋貿易を行った平清盛とのゆかりも深い。開港以来のキリスト教の隆盛に対する仏教の復興運動を背景に、この毘盧遮...