本稿は山陵(王陵)に関する研究の素材として、文献史料としての「陵号」に注目する。古代日本が大陸から取り入れた陵号による天皇陵呼称は中世にも引き継がれた。しかし、中世公家社会においては陵号の誤認も広がっている。本稿では公家社会の政務やそこで作成された文書を注意深く観察することにより、陵号とそれに対する貴族の認識を検討した。その結果、摂関期においてふたつの天皇陵が同一の呼称を陵号とし、あるいは実態の変化を伴わずただ陵号だけが変更される複雑な事態が存在したことが分かった。また貴族の山陵に対する関心が、今上天皇との関係性(誰の山陵か)に集中した結果、遺体の所在地に因んだ古代以来の陵号がミスマッチな存在になってしまったことも混乱の背景に見出した。こうした使い勝手の悪さにもかかわらず、古代に固執するかのように、中世公家社会は陵号を用いていたのである。The study of pre-modern Japanese imperial tombs has been concentrated on the ancient period for which there exists a sufficient body of primary sources. But, for the medieval period, studies have been speculative due the paucity of historical sources. As a result, little interest has been paid to imperial tombs from the medieval period. However, due to advances in the resea...
本稿は北魏後期に史学を掌る家として繁栄した東清河崔氏一族の動向を辿り、その中で一族出身の崔鴻が五胡十六国の史書『十六国春秋』を編纂した背景について考察した。この一族は五世紀後半に南朝宋から北魏に帰順し...
祝尚书,四川大学文学与新闻学院教授。【中文摘要】南宋时期,已通过发解试并获得州郡荐书、即将赴省试(礼部试)的举子,有不少人因家境贫寒,面临交通食宿、房租、考场用品购买等费用难题。用签约形式资助得解举子...
中世土師器は当時の人びとのもっとも身近な道具の一つであったが、その生産の実態は、生産遺跡の発見例が少ないためにほとんど論じられてこなかった。本稿では、戦国時代末期の土佐一国の検地記録である『長宗我部地...
山陵とは天皇の墳墓であり、その主体は遺体(遺骨) に他ならない。平安時代後期には、遺骨は山陵から寺院へと安置する場所を変えるが、このことは山陵が終焉し、新たに「寺の陵」が成立したことを意味するであろう...
デモクラシーの時代に登場した皇室の新カップル、裕仁と良子はを志向していた。しかし、の理念とは逆行する乳人制度を存続させざるを得なかった。そのために、皇室と国民を結ぶ回路にするという乳人の新しい理念を導...
明代宣徳以前、皇帝の修学は、各帝が宮中で任意に読書を行なうにまかせられていた。正統初年より、英宗皇帝に対する進講が始められるが、それは英宗が幼年で即位するという事態に対応するために、臨時的に実施された...
個人情報保護のため削除部分あり秦漢帝国による全土的統一以前、長江中流域に広がっていた楚の文化は墓制や埋葬施設の上でさまざまな特色をもっていた。計画的な古墓群、東・南頭位と上げ底棺、複雑な槨構造などがそ...
ヒッタイトでは王族が国家の中枢を占めていた。従来、この国家構造がヒッタイトの歴史上、変わらなかったとする説と中王国時代に改革されたとする説がある。しかし筆者は、変化したのは国家構造ではなく支配の方法で...
本論文では、「海を舞台とした人間活動と深い関連をもつ脈絡により、海の近くに築造された古墳」である「海の古墳」を研究することの意義と限界、そして展望を示す。まず、研究の意義として、首長墳の立地論や、海浜...
本稿は従来の研究が見落としてきた「象徴天皇制」という用語それ自体の由来を、憲法論を四期に分けて検証することで解明する。第一期は新憲法制定直後であり、この時期は君主制が維持されたのか否かが議論の中心で、...
奈良文化財研究所、奈良県立橿原考古学研究所、橿原市教育委員会、桜井市教育委員会、明日香村教育委員会は、宮を含め藤原京で発掘調査をおこなっている。発掘調査によって、宮や京のより確かな姿が明らかになってき...
本稿は、準男爵位を通じて近世イングランド社会における名誉と称号の意義を再検討するものである。一六一一年、王権は財源不足の解消を目的として男爵位とナイト位の間に準男爵位を設置し、その販売を開始した。従来...
江蘇省淮安市から出土した運河村墓は戦国中後期の境に造営された楚国の墓とされ、楚が前四世紀末には[カン]溝以東まで支配を拡大していた証左とされた。しかし本稿では同墓が土着の習俗を保持した楚墓とは異質な墓...
前漢代は最末期を除いて皇帝との実際の血縁・姻戚関係によって皇后・皇太后の尊卑秩序が構築されていた。文帝や昭帝が生母を皇太后に尊び、哀帝が実の祖母や生母を尊位に即けていたようにである。皇帝の妻・母である...
近十多年來,學界對於清宮傳世紫砂壺的討論,日趨漸增。本論文從研究史的角度,嘗試以清宮傳世盛清時期的紫砂壺,說明康熙、雍正、乾隆三帝,如何藉由紫砂壺,展演各自的品味。為了凸顯清宮的特殊性,本論文先就晚明...
本稿は北魏後期に史学を掌る家として繁栄した東清河崔氏一族の動向を辿り、その中で一族出身の崔鴻が五胡十六国の史書『十六国春秋』を編纂した背景について考察した。この一族は五世紀後半に南朝宋から北魏に帰順し...
祝尚书,四川大学文学与新闻学院教授。【中文摘要】南宋时期,已通过发解试并获得州郡荐书、即将赴省试(礼部试)的举子,有不少人因家境贫寒,面临交通食宿、房租、考场用品购买等费用难题。用签约形式资助得解举子...
中世土師器は当時の人びとのもっとも身近な道具の一つであったが、その生産の実態は、生産遺跡の発見例が少ないためにほとんど論じられてこなかった。本稿では、戦国時代末期の土佐一国の検地記録である『長宗我部地...
山陵とは天皇の墳墓であり、その主体は遺体(遺骨) に他ならない。平安時代後期には、遺骨は山陵から寺院へと安置する場所を変えるが、このことは山陵が終焉し、新たに「寺の陵」が成立したことを意味するであろう...
デモクラシーの時代に登場した皇室の新カップル、裕仁と良子はを志向していた。しかし、の理念とは逆行する乳人制度を存続させざるを得なかった。そのために、皇室と国民を結ぶ回路にするという乳人の新しい理念を導...
明代宣徳以前、皇帝の修学は、各帝が宮中で任意に読書を行なうにまかせられていた。正統初年より、英宗皇帝に対する進講が始められるが、それは英宗が幼年で即位するという事態に対応するために、臨時的に実施された...
個人情報保護のため削除部分あり秦漢帝国による全土的統一以前、長江中流域に広がっていた楚の文化は墓制や埋葬施設の上でさまざまな特色をもっていた。計画的な古墓群、東・南頭位と上げ底棺、複雑な槨構造などがそ...
ヒッタイトでは王族が国家の中枢を占めていた。従来、この国家構造がヒッタイトの歴史上、変わらなかったとする説と中王国時代に改革されたとする説がある。しかし筆者は、変化したのは国家構造ではなく支配の方法で...
本論文では、「海を舞台とした人間活動と深い関連をもつ脈絡により、海の近くに築造された古墳」である「海の古墳」を研究することの意義と限界、そして展望を示す。まず、研究の意義として、首長墳の立地論や、海浜...
本稿は従来の研究が見落としてきた「象徴天皇制」という用語それ自体の由来を、憲法論を四期に分けて検証することで解明する。第一期は新憲法制定直後であり、この時期は君主制が維持されたのか否かが議論の中心で、...
奈良文化財研究所、奈良県立橿原考古学研究所、橿原市教育委員会、桜井市教育委員会、明日香村教育委員会は、宮を含め藤原京で発掘調査をおこなっている。発掘調査によって、宮や京のより確かな姿が明らかになってき...
本稿は、準男爵位を通じて近世イングランド社会における名誉と称号の意義を再検討するものである。一六一一年、王権は財源不足の解消を目的として男爵位とナイト位の間に準男爵位を設置し、その販売を開始した。従来...
江蘇省淮安市から出土した運河村墓は戦国中後期の境に造営された楚国の墓とされ、楚が前四世紀末には[カン]溝以東まで支配を拡大していた証左とされた。しかし本稿では同墓が土着の習俗を保持した楚墓とは異質な墓...
前漢代は最末期を除いて皇帝との実際の血縁・姻戚関係によって皇后・皇太后の尊卑秩序が構築されていた。文帝や昭帝が生母を皇太后に尊び、哀帝が実の祖母や生母を尊位に即けていたようにである。皇帝の妻・母である...
近十多年來,學界對於清宮傳世紫砂壺的討論,日趨漸增。本論文從研究史的角度,嘗試以清宮傳世盛清時期的紫砂壺,說明康熙、雍正、乾隆三帝,如何藉由紫砂壺,展演各自的品味。為了凸顯清宮的特殊性,本論文先就晚明...
本稿は北魏後期に史学を掌る家として繁栄した東清河崔氏一族の動向を辿り、その中で一族出身の崔鴻が五胡十六国の史書『十六国春秋』を編纂した背景について考察した。この一族は五世紀後半に南朝宋から北魏に帰順し...
祝尚书,四川大学文学与新闻学院教授。【中文摘要】南宋时期,已通过发解试并获得州郡荐书、即将赴省试(礼部试)的举子,有不少人因家境贫寒,面临交通食宿、房租、考场用品购买等费用难题。用签约形式资助得解举子...
中世土師器は当時の人びとのもっとも身近な道具の一つであったが、その生産の実態は、生産遺跡の発見例が少ないためにほとんど論じられてこなかった。本稿では、戦国時代末期の土佐一国の検地記録である『長宗我部地...