明代宣徳以前、皇帝の修学は、各帝が宮中で任意に読書を行なうにまかせられていた。正統初年より、英宗皇帝に対する進講が始められるが、それは英宗が幼年で即位するという事態に対応するために、臨時的に実施された施策であった。その後、正統末年に惹起した土木の変に到る政情への反省から、当時の臣僚たちは、朝儀以外の時問に於いても皇帝の日常を一定程度管理する方法を模索する。結果として、景泰初年にすでに成年に達していた景泰帝を対象とした進講が開設された。つまり、明代に於いて皇帝がその年齢如何に関わらず臣僚によって教導の対象とされる体制が出現した背景として、正統から景泰に到る政情の推移とそれに対応しようとした臣僚たちの動向を措定できるのである。この一連の流れの中で、「同知經莚事」を帯びることになった内閣官は、皇帝に対する進講を主導するという職掌を獲得したのであった。The grand secretariat (neigeguan 内閣官), which was established during the reign of the Ming Emperor Yongle (1403-1424), continued to maintain a steady influence on the politics of the day within the political system of the Ming dynasty. One of the specific responsibilities borne by the grand secretariat was to present lectures to the emperor, in other words it was charged ...
本稿は、『ラテン語称賛演説集』の分析を通して、後三〇〇年前後のガリアにおいて皇帝・宮廷とガリア人とがどのように利害を一致させ相互に結び付いたかを考察するものである。当時のガリア人たちが利用したのはレト...
これまで政治的主体性が乏しいとされてきた徽宗だが、即位初年の政治状況からは通説とは違う姿が浮かび上がる。徽宗朝初年に中道路線をとったとされる向太后は、逆に新法派の蔡京と強く結んでおり、むしろその死後中...
本稿は,「節合」という概念を手掛かりとして,1934年の弘法大師1100年御遠忌で開催された「弘法大師文化展覧会」を中心として,弘法大師が日本文化と節合され,展示を通して人々に広められる過程を追う.こ...
本稿は中世朝廷社会の中における官司制度や官司諸職の特質とその変遷を分析するものである。まず、官司知行の問題を再検討し、知行の実質は官司諸職に付随する「務」の知行であるとして、「務」の概念を提起した上で...
本稿は北魏後期に史学を掌る家として繁栄した東清河崔氏一族の動向を辿り、その中で一族出身の崔鴻が五胡十六国の史書『十六国春秋』を編纂した背景について考察した。この一族は五世紀後半に南朝宋から北魏に帰順し...
清朝では適材適所の地方官人事を行うため, 督撫が下級地方官の人事を「題本」で請願できる規定が十八世紀前半に創始された。しかし, 督撫は主に「奏摺」を用い, 規定を越えて人事を請願していた。督撫による地...
「北虜南倭」の外圧がつよまる明の嘉靖年間(一五二二-一五六六) のなかば、中央政界で重きをなした咸寧侯仇鸞は、北辺防衛軍の武官からのしあがり、嘉靖三十年(一五五一) の明蒙間馬市を主導するなど、十六世...
「書」文化の広がりに重大な役割を果たした法帖の刊行は、嘉靖年間に蘇州文氏一族によってその先鞭がつけられ、以後、江南地方全域に拡大していくことになる。本稿は、万暦年間後半期から明代末期に至るまで一世を風...
前漢代は最末期を除いて皇帝との実際の血縁・姻戚関係によって皇后・皇太后の尊卑秩序が構築されていた。文帝や昭帝が生母を皇太后に尊び、哀帝が実の祖母や生母を尊位に即けていたようにである。皇帝の妻・母である...
七世紀初頭に成立した唐朝初期の支配集団は、陳寅恪氏によると関朧集団・山東貴族・南朝(江左) 貴族の三系統の氏族で構成され、関朧集団が他の勢力を抑圧・排除して政権中枢部を支配したとされる。従来の研究では...
本稿は、準男爵位を通じて近世イングランド社会における名誉と称号の意義を再検討するものである。一六一一年、王権は財源不足の解消を目的として男爵位とナイト位の間に準男爵位を設置し、その販売を開始した。従来...
デモクラシーの時代に登場した皇室の新カップル、裕仁と良子はを志向していた。しかし、の理念とは逆行する乳人制度を存続させざるを得なかった。そのために、皇室と国民を結ぶ回路にするという乳人の新しい理念を導...
本稿は従来の研究が見落としてきた「象徴天皇制」という用語それ自体の由来を、憲法論を四期に分けて検証することで解明する。第一期は新憲法制定直後であり、この時期は君主制が維持されたのか否かが議論の中心で、...
東アジアの国際秩序に関する従来の研究は、中国王朝が与えた官爵・王号から朝貢国の序列を検討することはあっても、国際秩序を原理面から考察したものは皆無であった。本稿は東アジア世界に働く国際秩序の原理性に着...
唐代において宣という言葉は、文書行政上さまざまな意味に使用された用語であるが、本稿が注目するのは「口頭で皇帝の意志を伝達する」行為に使用される場合である。唐代の政治意思形成の問題を考えたときに、宣に代...
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