富士市鈴川あたりの東海道の様子を東から撮影したもの。松の根元と棒に体を預け休む男性が写る。道路には両側に松並木、その先に茅葺の民家が並ぶ。撮影者は、アメリカの立体写真販売会社アンダーウッド&アンダーウッド社の写真師で、1896年または1903~1904年の来日時のどちらかの撮影である。The Tokaido Highway near Suzukawa in Fuji City, facing west. One man is resting under the pine tree and another leaning on a pole. Pine trees line the highway, and houses with thatched roofs are visible in the background. This photograph was taken by the American stereograph photograph company, Underwood & Underwood, either in 1896 or between 1903 and 1904
左手に市谷御門の桝形があり、その前に架かっていた土橋である。中央より左手の丘陵上は尾張徳川家上屋敷。明治初年に取壊され、跡地には明治11年(1878)陸軍士官学校が建つ(現在は防衛庁)。丘陵右端には市...
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信...
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。当時の写真は重いガラス板と電話ボックスのような暗室を数人の人夫で担いで行く必要があったので、茶店で休憩の際に撮影されたものが多い。A v...
ベアトが特に東海道の松並木に関心を寄せて撮った写真と思われる。街道に見える数人の男たちはその服装などから見て、旅人ではなく、松の手入れをする職人たちに違いない。This is probably a p...
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海...
富士市鈴川にある河合橋(かわいばし)から北方の富士山を遠望したもの。河合橋は沼川を渡る東海道に架けられた橋である。西側の橋の袂には特徴的な松が生え、東側の袂は船着場となり茅葺き屋根の小屋が建つ。橋上に...
旅人の疲れを癒やす茶屋は、街道筋の至る所で見られた。当初は茶屋での食事や宿泊は禁じられていたが、力餅などの名物と一緒に酒や肴を供するようになり、次第に女性に給仕させる店も出てきた。天秤棒を担ぐ行商人、...
F.ベアト(Felice Beato)が保土ヶ谷・藤沢間で撮影した写真の1枚。松並木で名高い戸塚宿の近くか。右手の茶屋に「一せんめし」「御ちやつけ」の看板が見える。ベアトから原版を継承したスティルフリ...
富士市鈴川(すずかわ)の砂丘上にある地蔵堂から北方の富士山を遠望したもの。境内には地蔵が並び、茅葺きのお堂の一部が見える。お堂の前には4人は、作業内容が不自然で明らかにモデルである。隙間からは東海道線...
F.ベアトアルバムの写真である。横浜と藤沢の間の東海道を撮影した写真である。幕末から明治初期の東海道の道路が分かる写真である。A photo from the album of F. Beato. A...
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発...
写っているのは日光街道の杉並木ではない。場所は日光山内の東照宮から二荒山神社に通じる上新道(かみしんみち)。画面は二荒山神社側から東照宮方面を写している。杉木立の間に見える建物は本地堂(ほんじどう)と...
鈴川は駿河湾に面し、潤井川河口左岸に位置する旧幕府領。富士、松並木、木橋、藁葺きの家、川船と船頭と、美しく、凝った構図になっている。なお、この角度、構図の富士の別の写真が、小沢健志監修『写真で見る幕末...
英語で「東海道戸塚」と印字されている。東海道の街道筋にあたる戸塚の風景である。路上には肥桶を担ぐ男性と人力車夫が写されている。後景の里山は神社であろうか、中央奥には藁葺きの家並みがみえる。The ca...
地蔵坂上からの眺望。キャプションに「根岸湾へ抜ける古道」とある。F.ベアトの撮影。The view from Jizozaka. Caption reads "An old road leading ...
左手に市谷御門の桝形があり、その前に架かっていた土橋である。中央より左手の丘陵上は尾張徳川家上屋敷。明治初年に取壊され、跡地には明治11年(1878)陸軍士官学校が建つ(現在は防衛庁)。丘陵右端には市...
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信...
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。当時の写真は重いガラス板と電話ボックスのような暗室を数人の人夫で担いで行く必要があったので、茶店で休憩の際に撮影されたものが多い。A v...
ベアトが特に東海道の松並木に関心を寄せて撮った写真と思われる。街道に見える数人の男たちはその服装などから見て、旅人ではなく、松の手入れをする職人たちに違いない。This is probably a p...
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海...
富士市鈴川にある河合橋(かわいばし)から北方の富士山を遠望したもの。河合橋は沼川を渡る東海道に架けられた橋である。西側の橋の袂には特徴的な松が生え、東側の袂は船着場となり茅葺き屋根の小屋が建つ。橋上に...
旅人の疲れを癒やす茶屋は、街道筋の至る所で見られた。当初は茶屋での食事や宿泊は禁じられていたが、力餅などの名物と一緒に酒や肴を供するようになり、次第に女性に給仕させる店も出てきた。天秤棒を担ぐ行商人、...
F.ベアト(Felice Beato)が保土ヶ谷・藤沢間で撮影した写真の1枚。松並木で名高い戸塚宿の近くか。右手の茶屋に「一せんめし」「御ちやつけ」の看板が見える。ベアトから原版を継承したスティルフリ...
富士市鈴川(すずかわ)の砂丘上にある地蔵堂から北方の富士山を遠望したもの。境内には地蔵が並び、茅葺きのお堂の一部が見える。お堂の前には4人は、作業内容が不自然で明らかにモデルである。隙間からは東海道線...
F.ベアトアルバムの写真である。横浜と藤沢の間の東海道を撮影した写真である。幕末から明治初期の東海道の道路が分かる写真である。A photo from the album of F. Beato. A...
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発...
写っているのは日光街道の杉並木ではない。場所は日光山内の東照宮から二荒山神社に通じる上新道(かみしんみち)。画面は二荒山神社側から東照宮方面を写している。杉木立の間に見える建物は本地堂(ほんじどう)と...
鈴川は駿河湾に面し、潤井川河口左岸に位置する旧幕府領。富士、松並木、木橋、藁葺きの家、川船と船頭と、美しく、凝った構図になっている。なお、この角度、構図の富士の別の写真が、小沢健志監修『写真で見る幕末...
英語で「東海道戸塚」と印字されている。東海道の街道筋にあたる戸塚の風景である。路上には肥桶を担ぐ男性と人力車夫が写されている。後景の里山は神社であろうか、中央奥には藁葺きの家並みがみえる。The ca...
地蔵坂上からの眺望。キャプションに「根岸湾へ抜ける古道」とある。F.ベアトの撮影。The view from Jizozaka. Caption reads "An old road leading ...
左手に市谷御門の桝形があり、その前に架かっていた土橋である。中央より左手の丘陵上は尾張徳川家上屋敷。明治初年に取壊され、跡地には明治11年(1878)陸軍士官学校が建つ(現在は防衛庁)。丘陵右端には市...
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信...
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。当時の写真は重いガラス板と電話ボックスのような暗室を数人の人夫で担いで行く必要があったので、茶店で休憩の際に撮影されたものが多い。A v...