横浜税関庁舎の楼上から眺めた大桟橋全景。桟橋のたもとから左手に湾曲して伸びる石積みの岸壁は「象の鼻」で、開港当初のイギリス波止場の突堤の一つ。その内側では、船舶の荷役をおこなう艀(はしけ)が溜まっている様子が見られる。Panoramic view of the great pier from Yokohama Customs Building. The curved stone-walled quay stretching from the edge of the pier to the left was called the "Elephant Trunk" and was one of the protrusions of Igirisu Hatoba (British Wharf) built at the time of the port-opening
『三菱長崎造船所立神工場ガントリクレーン』と題された大正期の絵葉書。明治17年(1884)、立神地区は本格的な造船工場として発足した。大正5年(1916)までには6基の船台が並びその各船台に、ガントリ...
英語で「横浜、メインストリート」と記入されている。本町通りには各国領事館、県庁、市役所、郵便電信局、生糸検査所、裁判所が軒を並べていた。写真の時計台はブリジェンスが明治7年に設計した横浜町会所である。...
何とも見苦しい建物であるが領事法廷の建物である以上四角四面なのももっともなことだと思う。The Far East 明治4年(1871)4月14日号。「復刻版The Far East」より引用。This...
海岸通りから見た大桟橋全景。横浜港のシンボル的存在である大桟橋は、明治22年(1889)からの第1次築港工事で建設され、同27年(1894)に完成した鉄製の海陸連絡橋。幅19m、全長730mを誇る。左...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
大桟橋築造前のイギリス波止場である。大桟橋築造までは、艀による沖懸かり荷役が行われた。その艀溜まりの状況がよくわかる。The "English wharf" before the great pier...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
慶応元年(1865)に幕府が建設した横浜製鉄所は、明治維新によって明治政府に接収され、第一ドックが完成した明治4年(1871)に横須賀造船所と改称された。造船所の建物群。The Yokohama Ir...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
「門司十二景」と題した絵葉書セットの1枚だが、同名のセットは多種存在する。桟橋通で、左側中央のレンガ建築が三井物産門司支店(明治43年火災後再建)、その手前が川卯旅館であるが現存していない。旅館の前の...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
バンド(Bund)全景。イギリス波止場からの撮影。海岸通は明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。植樹時期より撮影は明治20年代か。左端に見えるのがフランス波止...
3826のアングルを変えた絵葉書。明治18(1885)年に長崎から茂木に旧県道が開通し、明治39(1906)年茂木ホテルが開業していたが、大正3(1914)年長崎商船茂木~小浜航路が開設され、長崎から...
『三菱長崎造船所立神工場ガントリクレーン』と題された大正期の絵葉書。明治17年(1884)、立神地区は本格的な造船工場として発足した。大正5年(1916)までには6基の船台が並びその各船台に、ガントリ...
英語で「横浜、メインストリート」と記入されている。本町通りには各国領事館、県庁、市役所、郵便電信局、生糸検査所、裁判所が軒を並べていた。写真の時計台はブリジェンスが明治7年に設計した横浜町会所である。...
何とも見苦しい建物であるが領事法廷の建物である以上四角四面なのももっともなことだと思う。The Far East 明治4年(1871)4月14日号。「復刻版The Far East」より引用。This...
海岸通りから見た大桟橋全景。横浜港のシンボル的存在である大桟橋は、明治22年(1889)からの第1次築港工事で建設され、同27年(1894)に完成した鉄製の海陸連絡橋。幅19m、全長730mを誇る。左...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
大桟橋築造前のイギリス波止場である。大桟橋築造までは、艀による沖懸かり荷役が行われた。その艀溜まりの状況がよくわかる。The "English wharf" before the great pier...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
慶応元年(1865)に幕府が建設した横浜製鉄所は、明治維新によって明治政府に接収され、第一ドックが完成した明治4年(1871)に横須賀造船所と改称された。造船所の建物群。The Yokohama Ir...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
「門司十二景」と題した絵葉書セットの1枚だが、同名のセットは多種存在する。桟橋通で、左側中央のレンガ建築が三井物産門司支店(明治43年火災後再建)、その手前が川卯旅館であるが現存していない。旅館の前の...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
バンド(Bund)全景。イギリス波止場からの撮影。海岸通は明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。植樹時期より撮影は明治20年代か。左端に見えるのがフランス波止...
3826のアングルを変えた絵葉書。明治18(1885)年に長崎から茂木に旧県道が開通し、明治39(1906)年茂木ホテルが開業していたが、大正3(1914)年長崎商船茂木~小浜航路が開設され、長崎から...
『三菱長崎造船所立神工場ガントリクレーン』と題された大正期の絵葉書。明治17年(1884)、立神地区は本格的な造船工場として発足した。大正5年(1916)までには6基の船台が並びその各船台に、ガントリ...
英語で「横浜、メインストリート」と記入されている。本町通りには各国領事館、県庁、市役所、郵便電信局、生糸検査所、裁判所が軒を並べていた。写真の時計台はブリジェンスが明治7年に設計した横浜町会所である。...
何とも見苦しい建物であるが領事法廷の建物である以上四角四面なのももっともなことだと思う。The Far East 明治4年(1871)4月14日号。「復刻版The Far East」より引用。This...