バンド(Bund)全景。イギリス波止場からの撮影。海岸通は明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。植樹時期より撮影は明治20年代か。左端に見えるのがフランス波止場と、明治13年(1880)設置のボートハウス。Overall view of the Bund from Igirisu Hatoba (British Wharf). Pine trees were planted in 1885, and the area became more like a promenade. This photograph was probably taken around 1890, judging from the pine trees. The building in the far left is the boathouse built in 1880 at the Furansu Hatoba (French Wharf)
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備され...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
海岸通りの4番・5番付近。開港直後の居留地には海岸通りは存在せず、文久年間に新設されたものと考えられる。明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。写真は植樹以前の...
目録番号3175とほぼ同じアングルだが、電信柱の数が増えており時代はさらに下る。中央奥のフランス波止場には明治13年(1880)設置のボートハウスがみえ、同18年バンドに植樹される松並木がないことから...
英語で「本町通り(メインストリート)、横浜」と印刷されている。日本人市街のメインストリート、本町通りを撮影している。商家の構えは重厚であり、往時の財力をうかがわせている。路端には大八車が無造作におかれ...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
増徳院境内から元町通りを見る。山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。居留外国人の需要に応ずる商業地として発展した。左手の山上に見えるのは、元町百段上の浅間神...
海岸通り東端に架けられた谷戸橋は、明治20(1887)年鉄橋に架け替えられた。右端はグランドホテル、その左手の三角屋根は旧ヘボン邸である。Yatobashi spanning the south ed...
明治4年(1871)に建設された初代横浜駅。アメリカ人建築家ブリジェンス(R.P.Bridgens)の設計による木骨石造建築。現在の桜木町駅。手前の大江橋が木造から鉄橋に替わっており、同18年(188...
右手の煙突をもつ建物(184番)はオランダ人ストルネブリンク(L. Stornebrink)の経営する機械製氷工場、横浜アイス・ワークス。明治12年(1879)創業のジャパン・アイス・カンパニーに起源...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。Iseyama Kot...
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備され...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
海岸通りの4番・5番付近。開港直後の居留地には海岸通りは存在せず、文久年間に新設されたものと考えられる。明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。写真は植樹以前の...
目録番号3175とほぼ同じアングルだが、電信柱の数が増えており時代はさらに下る。中央奥のフランス波止場には明治13年(1880)設置のボートハウスがみえ、同18年バンドに植樹される松並木がないことから...
英語で「本町通り(メインストリート)、横浜」と印刷されている。日本人市街のメインストリート、本町通りを撮影している。商家の構えは重厚であり、往時の財力をうかがわせている。路端には大八車が無造作におかれ...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
増徳院境内から元町通りを見る。山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。居留外国人の需要に応ずる商業地として発展した。左手の山上に見えるのは、元町百段上の浅間神...
海岸通り東端に架けられた谷戸橋は、明治20(1887)年鉄橋に架け替えられた。右端はグランドホテル、その左手の三角屋根は旧ヘボン邸である。Yatobashi spanning the south ed...
明治4年(1871)に建設された初代横浜駅。アメリカ人建築家ブリジェンス(R.P.Bridgens)の設計による木骨石造建築。現在の桜木町駅。手前の大江橋が木造から鉄橋に替わっており、同18年(188...
右手の煙突をもつ建物(184番)はオランダ人ストルネブリンク(L. Stornebrink)の経営する機械製氷工場、横浜アイス・ワークス。明治12年(1879)創業のジャパン・アイス・カンパニーに起源...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。Iseyama Kot...
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備され...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...