3826のアングルを変えた絵葉書。明治18(1885)年に長崎から茂木に旧県道が開通し、明治39(1906)年茂木ホテルが開業していたが、大正3(1914)年長崎商船茂木~小浜航路が開設され、長崎から雲仙方面に向かう観光客がこれを利用した。海上の船はこの渡船である。桟橋には多くの人が写されている。Similar to #3826 but taken from a different angle. The former prefectural road from Nagasaki to Mogi opened in 1885, and the Mogi Hotel opened in 1906. The Nagasaki Shosen ferry started service between Mogi and Obama in 1914 for people visiting the Unzen area. There are many people at the pier
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
明治時代の茂木は居留外国人の保養地として、また、雲仙や熊本方面への港として賑わった。そのために茂木街道は、明治18年(1885)、人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修された。写真は田上峠に向か...
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋...
大正初期の茂木桟橋の絵葉書写真。明治18(1885)年に長崎から茂木に旧県道が開通し、明治39(1906)年茂木ホテルが開業していたが、大正3(1914)年長崎商船茂木~小浜航路が開設され、長崎から雲...
「門司十二景」と題した絵葉書セットの1枚だが、同名のセットは多種存在する。桟橋通で、左側中央のレンガ建築が三井物産門司支店(明治43年火災後再建)、その手前が川卯旅館であるが現存していない。旅館の前の...
明治中期茂木本郷の若菜川河口の海岸。茂木は外国人の保養地として人気があったが、明治18(1885)年には旧県道が開通し、明治39(1906)年にはビーチホテルである茂木ホテルが開業し、観光客が多く訪れ...
茂木の家並みと岬。小浜温泉、天草行きの桟橋はまだ岬の先端に見受けられない。大正8年(1919)西彼杵郡茂木町となり、昭和37年(1962)長崎市に編入された。海岸には、多くの漁船と網干し場が見られる。...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
門司港は関門海峡、周防灘に臨んで九州の玄関口の位置を占め、交通の要衝として古代より発展したが、江戸期には寒村に過ぎなくなっていた。明治22年の築港会社設立により発展を始めた。本写真は港の発展の初期の段...
大正初期の茂木ホテルの絵葉書写真。ビーチホテルの雰囲気がわかる。この岬は茂木村本郷の南端に突出する岬で、天草、島原などを眼前に望み風景雄大である。長崎市民の遊興の地であり長崎名勝図会でも取り上げられて...
明治末年に撮影された茂木街道道中の水車小屋。旅人はこの場所で休息したようで、明治初期にも同じ場所での水車小屋の写真が残されている。写されている人物は子供の行水のようである。明治初期の水車と比べると、轍...
手前中央に立つ四角い柱は郵便箱(郵便ポスト)である。郵便箱は明治5年(1872)に初めて東京の辻々に設置された。杉材黒塗りであった。明治20年(1887)から土台に根石が取り付けられるようになった。本...
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、...
5265と同じ岩を別のアングルから撮影した絵葉書写真。茂木は外国人の保養地として人気があったが、明治18(1885)年には旧県道が開通し、明治39(1906)年にはビーチホテルである茂木ホテルが開業し...
長崎市から東の田上の峠を越えた橘湾に面する茂木町の旧小字の片町にあたる付近の絵葉書写真。茂木は外国人の保養地として人気があったが、明治18(1885)年には旧県道が開通し、明治39(1906)年にはビ...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
明治時代の茂木は居留外国人の保養地として、また、雲仙や熊本方面への港として賑わった。そのために茂木街道は、明治18年(1885)、人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修された。写真は田上峠に向か...
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋...
大正初期の茂木桟橋の絵葉書写真。明治18(1885)年に長崎から茂木に旧県道が開通し、明治39(1906)年茂木ホテルが開業していたが、大正3(1914)年長崎商船茂木~小浜航路が開設され、長崎から雲...
「門司十二景」と題した絵葉書セットの1枚だが、同名のセットは多種存在する。桟橋通で、左側中央のレンガ建築が三井物産門司支店(明治43年火災後再建)、その手前が川卯旅館であるが現存していない。旅館の前の...
明治中期茂木本郷の若菜川河口の海岸。茂木は外国人の保養地として人気があったが、明治18(1885)年には旧県道が開通し、明治39(1906)年にはビーチホテルである茂木ホテルが開業し、観光客が多く訪れ...
茂木の家並みと岬。小浜温泉、天草行きの桟橋はまだ岬の先端に見受けられない。大正8年(1919)西彼杵郡茂木町となり、昭和37年(1962)長崎市に編入された。海岸には、多くの漁船と網干し場が見られる。...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
門司港は関門海峡、周防灘に臨んで九州の玄関口の位置を占め、交通の要衝として古代より発展したが、江戸期には寒村に過ぎなくなっていた。明治22年の築港会社設立により発展を始めた。本写真は港の発展の初期の段...
大正初期の茂木ホテルの絵葉書写真。ビーチホテルの雰囲気がわかる。この岬は茂木村本郷の南端に突出する岬で、天草、島原などを眼前に望み風景雄大である。長崎市民の遊興の地であり長崎名勝図会でも取り上げられて...
明治末年に撮影された茂木街道道中の水車小屋。旅人はこの場所で休息したようで、明治初期にも同じ場所での水車小屋の写真が残されている。写されている人物は子供の行水のようである。明治初期の水車と比べると、轍...
手前中央に立つ四角い柱は郵便箱(郵便ポスト)である。郵便箱は明治5年(1872)に初めて東京の辻々に設置された。杉材黒塗りであった。明治20年(1887)から土台に根石が取り付けられるようになった。本...
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、...
5265と同じ岩を別のアングルから撮影した絵葉書写真。茂木は外国人の保養地として人気があったが、明治18(1885)年には旧県道が開通し、明治39(1906)年にはビーチホテルである茂木ホテルが開業し...
長崎市から東の田上の峠を越えた橘湾に面する茂木町の旧小字の片町にあたる付近の絵葉書写真。茂木は外国人の保養地として人気があったが、明治18(1885)年には旧県道が開通し、明治39(1906)年にはビ...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
明治時代の茂木は居留外国人の保養地として、また、雲仙や熊本方面への港として賑わった。そのために茂木街道は、明治18年(1885)、人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修された。写真は田上峠に向か...
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋...