吹上御苑の西側、半蔵門を入って直ぐの所に広がっていた竹林である。写真3937と同じ時(おそらく明治10年代)に撮られた写真であろう。竹の形が同じである。植木職人らしき人物2人は、3937に写る3人の中の2人であろう。この写真が販売されたのは明治中期と思われる。The bamboo grove stretched to the right inside Hanzo-mon (gate) on the west side of Fukiage Garden. The photograph may have been taken around the same time as photograph #3937, because the shape of the bamboo trees is similar. The two men, probably gardeners, may be two of the three men portrayed in photograph #3937. This photograph is thought to have been sold in the mid-Meiji Period
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備され...
京都市左京区、比叡山西麓、音羽川右岸に位置する山荘。御水尾院が心血を注いで創作したと伝えられている。石組みの間に灯籠があり、池の石と石の間には小さい橋がかけられている。植え込みの向こうに刈り込みが見え...
汐入の池北岸にあった燕の茶屋である。十一代将軍家斉の時代に造られたもので、釘隠しが燕の形であったからとも燕子花の形であったから名付けられたともいう。家斉の時代は浜御殿が最も整備された時代で、この茶屋の...
かつては江戸城の西の備えとして大名屋敷があったが、明暦の大火(1657)以後庭園化された。庭園内には木石の配置まで人工の妙を尽くしていた。滝は中央大池の南岸と瀧見御茶屋の近くに2ヶ所あったらしい。本写...
京都市上京区京都御苑内の北側にある。現在の建物は、何度もの火災を経て、安政度の御造営の際に、寛政度の内裏を踏襲して造られたものである。龍泉庭から築地塀ごしに御常御殿の大棟を望む。御内庭は遣水形式で8つ...
西の丸下(現皇居外苑)から写した西の丸大手橋(手前)と西の丸下乗橋(奥の橋)。西の丸下乗橋は、堀が深いため上下二重に架けられた珍しい構造だった。それで二重橋という俗称が生まれた。左の門が西の丸大手門。...
英文タイトルの「PALACE」は宮殿・御殿・大邸宅というような意味を持つ。かなり広い池と岩組みをふんだんに採り入れた典型的な池泉回遊式の大名庭園であるが場所は特定できない。左手の木はかなりの古木であり...
京都御所御池庭と御常御殿を御池南側の中島に架かる欅橋より北に望む。右方には北側の中島に石橋が架かり、御常御殿前には松や樅が植えられる。御池庭は延宝年間(1673~81)に造られた回遊式の庭園で、御常御...
江戸期には本丸大手門が江戸城の正門だったが、明治になると西の丸大手門(左の門)が皇居の正門となった。手前の西の丸大手橋の袂に高麗門(こうらいもん)があるが、この門は明治21年(1888)、明治宮殿造営...
本丸と紅葉山の間に掘られた蓮池堀である。名称の如く蓮が多い。左側の石垣が高いので本丸御殿があった側であろう。とすれば、蓮池北の端にある紅葉山下門辺りから東南(蓮池門)の方を撮影した写真と思われる。日下...
常盤橋の袂である本町河岸から南を写したもの。ここは水の十字路になっていて、左側は写されていないが一石橋(いっこくばし)があり、日本橋川となる水路を跨いでいる。右の堀の切れ目は道三堀で、龍ノ口(内堀で余...
江戸時代西の丸大手門だったが、明治21年(1888)の新宮殿造営に際し、翌明治22年(1889)に皇居正門に改められた。この写真では門の前にあった第1門である高麗門(こうらいもん)は撤去され、直接渡り...
外桜田門の西から麹町、半蔵門方面を望む。外桜田門から半蔵門にかけての皇居(旧江戸城)が内堀(桜田堀)に面する所は、「鉢巻土居」といって石垣が上部にしかなく、あとは緩やかな曲線を持つ土塁で覆われていた。...
皇居の蛤濠に沿って歩くと、右手に宮内庁の通用門である坂下門が見える。文久2年(1862)、老中の安藤対馬守信正はこの門外で水戸浪士に襲撃された。パラソルをさした和装の女性が数人見られる。Walking...
玄宮園(げんきゅうえん)は、彦根城の北三の丸にある井伊家旧下屋敷の庭園。四代藩主・井伊直興(いいなおおき)が、延宝7年(1679)に完成させた、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)・近江八景を取れ入...
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備され...
京都市左京区、比叡山西麓、音羽川右岸に位置する山荘。御水尾院が心血を注いで創作したと伝えられている。石組みの間に灯籠があり、池の石と石の間には小さい橋がかけられている。植え込みの向こうに刈り込みが見え...
汐入の池北岸にあった燕の茶屋である。十一代将軍家斉の時代に造られたもので、釘隠しが燕の形であったからとも燕子花の形であったから名付けられたともいう。家斉の時代は浜御殿が最も整備された時代で、この茶屋の...
かつては江戸城の西の備えとして大名屋敷があったが、明暦の大火(1657)以後庭園化された。庭園内には木石の配置まで人工の妙を尽くしていた。滝は中央大池の南岸と瀧見御茶屋の近くに2ヶ所あったらしい。本写...
京都市上京区京都御苑内の北側にある。現在の建物は、何度もの火災を経て、安政度の御造営の際に、寛政度の内裏を踏襲して造られたものである。龍泉庭から築地塀ごしに御常御殿の大棟を望む。御内庭は遣水形式で8つ...
西の丸下(現皇居外苑)から写した西の丸大手橋(手前)と西の丸下乗橋(奥の橋)。西の丸下乗橋は、堀が深いため上下二重に架けられた珍しい構造だった。それで二重橋という俗称が生まれた。左の門が西の丸大手門。...
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江戸期には本丸大手門が江戸城の正門だったが、明治になると西の丸大手門(左の門)が皇居の正門となった。手前の西の丸大手橋の袂に高麗門(こうらいもん)があるが、この門は明治21年(1888)、明治宮殿造営...
本丸と紅葉山の間に掘られた蓮池堀である。名称の如く蓮が多い。左側の石垣が高いので本丸御殿があった側であろう。とすれば、蓮池北の端にある紅葉山下門辺りから東南(蓮池門)の方を撮影した写真と思われる。日下...
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江戸時代西の丸大手門だったが、明治21年(1888)の新宮殿造営に際し、翌明治22年(1889)に皇居正門に改められた。この写真では門の前にあった第1門である高麗門(こうらいもん)は撤去され、直接渡り...
外桜田門の西から麹町、半蔵門方面を望む。外桜田門から半蔵門にかけての皇居(旧江戸城)が内堀(桜田堀)に面する所は、「鉢巻土居」といって石垣が上部にしかなく、あとは緩やかな曲線を持つ土塁で覆われていた。...
皇居の蛤濠に沿って歩くと、右手に宮内庁の通用門である坂下門が見える。文久2年(1862)、老中の安藤対馬守信正はこの門外で水戸浪士に襲撃された。パラソルをさした和装の女性が数人見られる。Walking...
玄宮園(げんきゅうえん)は、彦根城の北三の丸にある井伊家旧下屋敷の庭園。四代藩主・井伊直興(いいなおおき)が、延宝7年(1679)に完成させた、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)・近江八景を取れ入...
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備され...
京都市左京区、比叡山西麓、音羽川右岸に位置する山荘。御水尾院が心血を注いで創作したと伝えられている。石組みの間に灯籠があり、池の石と石の間には小さい橋がかけられている。植え込みの向こうに刈り込みが見え...
汐入の池北岸にあった燕の茶屋である。十一代将軍家斉の時代に造られたもので、釘隠しが燕の形であったからとも燕子花の形であったから名付けられたともいう。家斉の時代は浜御殿が最も整備された時代で、この茶屋の...