京都市上京区京都御苑内の北側にある。現在の建物は、何度もの火災を経て、安政度の御造営の際に、寛政度の内裏を踏襲して造られたものである。龍泉庭から築地塀ごしに御常御殿の大棟を望む。御内庭は遣水形式で8つの橋をかける。写真中央にその橋の一つが見え、築島がある。Located at the north part of Kyoto Gyoen in Kamikyo-ku, Kyoto City. The building was destroyed several times by fire, and the present building was built in the Ansei era based on the imperial palace of the Kansei era. The Mitsune palace is seen from the Ryusen garden over the Tsukiji wall. The inner garden has eight bridges in the Yarimizu form. One of the bridges is visible in the centre of the photo with an island
汐入の池北岸にあった燕の茶屋である。十一代将軍家斉の時代に造られたもので、釘隠しが燕の形であったからとも燕子花の形であったから名付けられたともいう。家斉の時代は浜御殿が最も整備された時代で、この茶屋の...
名古屋城本丸・二の丸の北方に設けられた御深井丸(おふけまる)の下御深井御庭の一部であろう。この庭園は広大な蓮池の中に松原島・竹藤島など、大小14の島をつくり、幽仙境を表現したものであったという。明治2...
小さな池にかかった小さな橋の上に日傘をさした女性が立ち、その向こうの、池に突き出した茶屋の一室の欄干に腰を乗せた女性が見詰めている。いかにもこじんまりした日本的庭と女性たちの姿が調和している。A wo...
西の丸下(現皇居外苑)から写した西の丸大手橋(手前)と西の丸下乗橋(奥の橋)。西の丸下乗橋は、堀が深いため上下二重に架けられた珍しい構造だった。それで二重橋という俗称が生まれた。左の門が西の丸大手門。...
京都御所御池庭と御常御殿を御池南側の中島に架かる欅橋より北に望む。右方には北側の中島に石橋が架かり、御常御殿前には松や樅が植えられる。御池庭は延宝年間(1673~81)に造られた回遊式の庭園で、御常御...
かつては江戸城の西の備えとして大名屋敷があったが、明暦の大火(1657)以後庭園化された。庭園内には木石の配置まで人工の妙を尽くしていた。滝は中央大池の南岸と瀧見御茶屋の近くに2ヶ所あったらしい。本写...
江戸期には本丸大手門が江戸城の正門だったが、明治になると西の丸大手門(左の門)が皇居の正門となった。手前の西の丸大手橋の袂に高麗門(こうらいもん)があるが、この門は明治21年(1888)、明治宮殿造営...
英文タイトルの「PALACE」は宮殿・御殿・大邸宅というような意味を持つ。かなり広い池と岩組みをふんだんに採り入れた典型的な池泉回遊式の大名庭園であるが場所は特定できない。左手の木はかなりの古木であり...
本丸と紅葉山の間に掘られた蓮池堀である。名称の如く蓮が多い。左側の石垣が高いので本丸御殿があった側であろう。とすれば、蓮池北の端にある紅葉山下門辺りから東南(蓮池門)の方を撮影した写真と思われる。日下...
京都市左京区、比叡山西麓、音羽川右岸に位置する山荘。御水尾院が心血を注いで創作したと伝えられている。石組みの間に灯籠があり、池の石と石の間には小さい橋がかけられている。植え込みの向こうに刈り込みが見え...
常盤橋の袂である本町河岸から南を写したもの。ここは水の十字路になっていて、左側は写されていないが一石橋(いっこくばし)があり、日本橋川となる水路を跨いでいる。右の堀の切れ目は道三堀で、龍ノ口(内堀で余...
この雪見灯籠の描かれた錦絵があることなどから、九段靖国神社の境内と分かる。奥の鳥居は明治6年(1873)に建設された木造大鳥居。腐朽のため明治17年(1884)に撤去され、明治20年(1887)に青銅...
外桜田門の西から麹町、半蔵門方面を望む。外桜田門から半蔵門にかけての皇居(旧江戸城)が内堀(桜田堀)に面する所は、「鉢巻土居」といって石垣が上部にしかなく、あとは緩やかな曲線を持つ土塁で覆われていた。...
江戸時代西の丸大手門だったが、明治21年(1888)の新宮殿造営に際し、翌明治22年(1889)に皇居正門に改められた。この写真では門の前にあった第1門である高麗門(こうらいもん)は撤去され、直接渡り...
皇居の蛤濠に沿って歩くと、右手に宮内庁の通用門である坂下門が見える。文久2年(1862)、老中の安藤対馬守信正はこの門外で水戸浪士に襲撃された。パラソルをさした和装の女性が数人見られる。Walking...
汐入の池北岸にあった燕の茶屋である。十一代将軍家斉の時代に造られたもので、釘隠しが燕の形であったからとも燕子花の形であったから名付けられたともいう。家斉の時代は浜御殿が最も整備された時代で、この茶屋の...
名古屋城本丸・二の丸の北方に設けられた御深井丸(おふけまる)の下御深井御庭の一部であろう。この庭園は広大な蓮池の中に松原島・竹藤島など、大小14の島をつくり、幽仙境を表現したものであったという。明治2...
小さな池にかかった小さな橋の上に日傘をさした女性が立ち、その向こうの、池に突き出した茶屋の一室の欄干に腰を乗せた女性が見詰めている。いかにもこじんまりした日本的庭と女性たちの姿が調和している。A wo...
西の丸下(現皇居外苑)から写した西の丸大手橋(手前)と西の丸下乗橋(奥の橋)。西の丸下乗橋は、堀が深いため上下二重に架けられた珍しい構造だった。それで二重橋という俗称が生まれた。左の門が西の丸大手門。...
京都御所御池庭と御常御殿を御池南側の中島に架かる欅橋より北に望む。右方には北側の中島に石橋が架かり、御常御殿前には松や樅が植えられる。御池庭は延宝年間(1673~81)に造られた回遊式の庭園で、御常御...
かつては江戸城の西の備えとして大名屋敷があったが、明暦の大火(1657)以後庭園化された。庭園内には木石の配置まで人工の妙を尽くしていた。滝は中央大池の南岸と瀧見御茶屋の近くに2ヶ所あったらしい。本写...
江戸期には本丸大手門が江戸城の正門だったが、明治になると西の丸大手門(左の門)が皇居の正門となった。手前の西の丸大手橋の袂に高麗門(こうらいもん)があるが、この門は明治21年(1888)、明治宮殿造営...
英文タイトルの「PALACE」は宮殿・御殿・大邸宅というような意味を持つ。かなり広い池と岩組みをふんだんに採り入れた典型的な池泉回遊式の大名庭園であるが場所は特定できない。左手の木はかなりの古木であり...
本丸と紅葉山の間に掘られた蓮池堀である。名称の如く蓮が多い。左側の石垣が高いので本丸御殿があった側であろう。とすれば、蓮池北の端にある紅葉山下門辺りから東南(蓮池門)の方を撮影した写真と思われる。日下...
京都市左京区、比叡山西麓、音羽川右岸に位置する山荘。御水尾院が心血を注いで創作したと伝えられている。石組みの間に灯籠があり、池の石と石の間には小さい橋がかけられている。植え込みの向こうに刈り込みが見え...
常盤橋の袂である本町河岸から南を写したもの。ここは水の十字路になっていて、左側は写されていないが一石橋(いっこくばし)があり、日本橋川となる水路を跨いでいる。右の堀の切れ目は道三堀で、龍ノ口(内堀で余...
この雪見灯籠の描かれた錦絵があることなどから、九段靖国神社の境内と分かる。奥の鳥居は明治6年(1873)に建設された木造大鳥居。腐朽のため明治17年(1884)に撤去され、明治20年(1887)に青銅...
外桜田門の西から麹町、半蔵門方面を望む。外桜田門から半蔵門にかけての皇居(旧江戸城)が内堀(桜田堀)に面する所は、「鉢巻土居」といって石垣が上部にしかなく、あとは緩やかな曲線を持つ土塁で覆われていた。...
江戸時代西の丸大手門だったが、明治21年(1888)の新宮殿造営に際し、翌明治22年(1889)に皇居正門に改められた。この写真では門の前にあった第1門である高麗門(こうらいもん)は撤去され、直接渡り...
皇居の蛤濠に沿って歩くと、右手に宮内庁の通用門である坂下門が見える。文久2年(1862)、老中の安藤対馬守信正はこの門外で水戸浪士に襲撃された。パラソルをさした和装の女性が数人見られる。Walking...
汐入の池北岸にあった燕の茶屋である。十一代将軍家斉の時代に造られたもので、釘隠しが燕の形であったからとも燕子花の形であったから名付けられたともいう。家斉の時代は浜御殿が最も整備された時代で、この茶屋の...
名古屋城本丸・二の丸の北方に設けられた御深井丸(おふけまる)の下御深井御庭の一部であろう。この庭園は広大な蓮池の中に松原島・竹藤島など、大小14の島をつくり、幽仙境を表現したものであったという。明治2...
小さな池にかかった小さな橋の上に日傘をさした女性が立ち、その向こうの、池に突き出した茶屋の一室の欄干に腰を乗せた女性が見詰めている。いかにもこじんまりした日本的庭と女性たちの姿が調和している。A wo...