大谷川畔の大日如来を安置した大日堂は明治35年の洪水で流失した。写真は流失する前の大日堂と庭園である。池辺には芭蕉の句碑があり、傍らに寮が設けられていた。The Dainichido with the Dainichi Nyorai statue by Daiya River was destroyed in the flood of 1902. This photo shows the Dainichido and its garden before they were destroyed. By the pond is a haiku monument dedicated to Basho, and a dormitory was built by it
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
日光の大猷院本殿を皇嘉門奥の石垣上から撮影している。重層入母屋造の本殿の前には相の間があり、拝殿と連結している。いわゆる権現造りである。厳冬に備えてあろうか壁面四方が保護されている。The Main ...
大谷川畔の大日如来を安置した大日堂は明治35年の洪水で流失した。写真は流失する前の大日堂と庭園である。池辺には芭蕉の句碑があり、傍らに寮が設けられていた。The Dainichido with the...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
ベアト撮影。「横浜近くの大仏の寺、64年7月17日」と記されている。夏の長谷寺の大仏である。この大仏の写真には人物が写されていないが、手前の手洗い場が写されている。Taken by Beato. Wr...
真光寺門前の蓮池に座す大仏。明治中期の撮影だろう。左手に大門(文政10年 (1827) 改築)、右奥に鐘楼(明和9年(1772) 再建) が見える。境内に入って南側に一遍上人の廟所があり、一遍の墓塔と...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
大阪市西区北堀江の和光寺(わこうじ 1698創建)である。境内に阿弥陀池があり、推古天皇8年(600)本田善光(ほんだぜんこう)がこの池で如来像の出現をみて、信濃善光寺の本尊としたという。和光寺の本尊...
元治元年(1864)頃、ベアトが撮影した寺町の大音寺本堂。僧職と武士、従者が撮影されているが、整理番号28-21の鐘楼を撮影後、移動して撮ったと思われる。ベアトは上野彦馬をこの境内で撮影している。A ...
日光山輪王寺の三仏堂の東側、護法天堂(ごほうてんどう)の南側に位置する日本庭園。小滝の上に不動明王の石像が見える。この写真の画角からは、撮影された時期が、神仏分離によって解体されていた三仏堂が再建され...
徳川家光公の廟所大猷院の夜叉門は主殿の入り口である唐門の前にある。両側に夜叉像を安置し極彩色の彫刻で埋めつくされている。別名牡丹門という。写真は夜叉門を表より望み、整理番号26-1と同じ。The Ya...
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
日光の大猷院本殿を皇嘉門奥の石垣上から撮影している。重層入母屋造の本殿の前には相の間があり、拝殿と連結している。いわゆる権現造りである。厳冬に備えてあろうか壁面四方が保護されている。The Main ...
大谷川畔の大日如来を安置した大日堂は明治35年の洪水で流失した。写真は流失する前の大日堂と庭園である。池辺には芭蕉の句碑があり、傍らに寮が設けられていた。The Dainichido with the...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
大雄山最乗寺(現南足柄市)で撮られたもの。僧侶や稚児、奉納された鈴(れい)が写っている。天狗は大雄山の象徴。この像は戦時中供出されたか現在はない。明治中期頃か。稚児は戦前までは袴姿であった。A pho...
軒が波打っていて、大仏殿明治修理以前の撮影である。現在の大仏殿は宝永6年(1709)に完成したから、明治末年の大修理まで200年近くを経ていたことになる。大規模建築で構造上の負担、とくに屋根の荷重によ...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
ベアト撮影。「横浜近くの大仏の寺、64年7月17日」と記されている。夏の長谷寺の大仏である。この大仏の写真には人物が写されていないが、手前の手洗い場が写されている。Taken by Beato. Wr...
真光寺門前の蓮池に座す大仏。明治中期の撮影だろう。左手に大門(文政10年 (1827) 改築)、右奥に鐘楼(明和9年(1772) 再建) が見える。境内に入って南側に一遍上人の廟所があり、一遍の墓塔と...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
大阪市西区北堀江の和光寺(わこうじ 1698創建)である。境内に阿弥陀池があり、推古天皇8年(600)本田善光(ほんだぜんこう)がこの池で如来像の出現をみて、信濃善光寺の本尊としたという。和光寺の本尊...
元治元年(1864)頃、ベアトが撮影した寺町の大音寺本堂。僧職と武士、従者が撮影されているが、整理番号28-21の鐘楼を撮影後、移動して撮ったと思われる。ベアトは上野彦馬をこの境内で撮影している。A ...
日光山輪王寺の三仏堂の東側、護法天堂(ごほうてんどう)の南側に位置する日本庭園。小滝の上に不動明王の石像が見える。この写真の画角からは、撮影された時期が、神仏分離によって解体されていた三仏堂が再建され...
徳川家光公の廟所大猷院の夜叉門は主殿の入り口である唐門の前にある。両側に夜叉像を安置し極彩色の彫刻で埋めつくされている。別名牡丹門という。写真は夜叉門を表より望み、整理番号26-1と同じ。The Ya...
寺町の大音寺境内を正面から上がった左手にあった鐘楼を元治元年(1864)頃長崎を訪問したベアトが撮影したものである。僧侶と武士、従者がベアトを珍しそうに眺めている様子がうががえる。Beato took...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
日光の大猷院本殿を皇嘉門奥の石垣上から撮影している。重層入母屋造の本殿の前には相の間があり、拝殿と連結している。いわゆる権現造りである。厳冬に備えてあろうか壁面四方が保護されている。The Main ...