関門海峡と赤間神宮。上野彦馬の撮影による。赤間神宮は壇の浦で果てた幼帝安徳天皇を祀る。安徳天皇と平家一門への回向として5月3日には「先帝祭」が行われる。The Kanmon Straits and Akama Jingu Shrine. Photographed by Ueno Hikoma. Akama Jingu is dedicated to the infant Emperor Antoku who died at Danoura. The Sentei Festival is held on May 3 every year to pray for peace of the souls of the Heike family and the Emperor Antoku
東照宮本殿の脇にある神輿舎(しんよしゃ)を背に境内の様子を写している。画面左端が唐門。中央の奥にあるのが祈祷殿(護摩堂)。右端が八乙女が神楽を舞う神楽殿。祈祷殿と神楽殿の間に見える回廊の入口に「眠り猫...
中山道の宿場町(詳細不明)の町並み。道の両側に立ち並ぶのいくつかは、紋章を付した看板を掲げている。木曽路とも呼ばれる中山道は、家康によって制定された五街道の一つだっが、明治維新以降は衰退の一途を辿った...
厳島神社は平安時代,平清盛によって整備され,今日にその姿を伝えている。写真は御本社平舞台西方から楽房・門客神社を望み,遠くにサクラ木が満開の塔の丘に豊国神社(千畳閣)や応永14年(1407)建立の五重...
上野彦馬の撮影による赤間神宮の写真。赤間神宮は壇の浦で入水し果てた幼帝安徳天皇を祀る。関門海峡に望み、いまでも海の守護神として参詣する人も多い。A picture by Ueno Hikoma of ...
入口の鳥居を入って直ぐの所にある太鼓橋の上から楼門を望む。手前には茶袴を穿いた女学生が5人並んでいる。合格祈願のお参りだろうか。心字池に架かる橋は太鼓橋・平橋・太鼓橋と3つ並ぶ。過去・現在・未来を表す...
目録番号4744から、若宮(わかみや)であることがわかる。鶴岡八幡宮は治承4年(1180)現若宮の所に勧請(かんじょう)されたという。写真の社殿は寛永元年(1624)の再建で、現重要文化財。屋根はこけ...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
九段の靖国神社。戊辰戦争で戦死した人を祀るために明治2年(1869)6月29日に創建された。当初は招魂社(しょうこんしゃ)といったが、明治12年(1879)6月4日に靖国神社と改められた。しかしそれ以...
石段を登ると陽明門の境内となる。右端に鼓楼、その横にオランダが献上した釣燈籠や回転燈籠がある。石段の両側には島津家と伊達の献納した燈籠が立ち並ぶ。左端に上神庫の屋根が写っている。Climbing up...
写真家集「小川一真(1860~1929)」(シート集)所収。彼は忍藩(現埼玉県行田市)生まれの写真家で、後年は写真版印刷業を営んだ。鎌倉に来た時期は不明だが、写された境内の様子から目録番号4674とほ...
日光東照宮の奥社の拝殿右側から本社の拝殿や陽明門などを見下ろしている。奥社の宝塔には徳川家康の眠る神柩(しんきゅう)が納められている。画面手前に見えるのは本社拝殿の屋根。画面中央の杉の右側にある白い柱...
明治元年の奥羽の乱、函館攻略の際戦死した振遠隊の隊員を祀った場所。現存せず、西小島町の大徳寺公園内の一角に「梅香崎招魂社並びに同墳墓地跡」の石碑が建てられていて、そこには佐古神社移転の旨記載されている...
明治10年(1876)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵比寿神社)を撮影したもので。同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家...
箱根権現として古くから信仰を集めてきた箱根神社である。特に、中世は、源頼朝を始めとする鎌倉幕府の信奉が厚く、曽我物語の舞台ともなっている。狛犬やお手植えの松がないことから、明治29年以前のものと分かる...
乳待山は言問橋上流右岸にあり、隅田川にある景勝の地。その丘上にあるのが、歓喜矢双身像を本尊とする聖観音宗本龍院、通称聖天さまである。手前に山谷堀に架かる今戸橋が見える。荷風の『すみだ川』にも描かれる。...
東照宮本殿の脇にある神輿舎(しんよしゃ)を背に境内の様子を写している。画面左端が唐門。中央の奥にあるのが祈祷殿(護摩堂)。右端が八乙女が神楽を舞う神楽殿。祈祷殿と神楽殿の間に見える回廊の入口に「眠り猫...
中山道の宿場町(詳細不明)の町並み。道の両側に立ち並ぶのいくつかは、紋章を付した看板を掲げている。木曽路とも呼ばれる中山道は、家康によって制定された五街道の一つだっが、明治維新以降は衰退の一途を辿った...
厳島神社は平安時代,平清盛によって整備され,今日にその姿を伝えている。写真は御本社平舞台西方から楽房・門客神社を望み,遠くにサクラ木が満開の塔の丘に豊国神社(千畳閣)や応永14年(1407)建立の五重...
上野彦馬の撮影による赤間神宮の写真。赤間神宮は壇の浦で入水し果てた幼帝安徳天皇を祀る。関門海峡に望み、いまでも海の守護神として参詣する人も多い。A picture by Ueno Hikoma of ...
入口の鳥居を入って直ぐの所にある太鼓橋の上から楼門を望む。手前には茶袴を穿いた女学生が5人並んでいる。合格祈願のお参りだろうか。心字池に架かる橋は太鼓橋・平橋・太鼓橋と3つ並ぶ。過去・現在・未来を表す...
目録番号4744から、若宮(わかみや)であることがわかる。鶴岡八幡宮は治承4年(1180)現若宮の所に勧請(かんじょう)されたという。写真の社殿は寛永元年(1624)の再建で、現重要文化財。屋根はこけ...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
九段の靖国神社。戊辰戦争で戦死した人を祀るために明治2年(1869)6月29日に創建された。当初は招魂社(しょうこんしゃ)といったが、明治12年(1879)6月4日に靖国神社と改められた。しかしそれ以...
石段を登ると陽明門の境内となる。右端に鼓楼、その横にオランダが献上した釣燈籠や回転燈籠がある。石段の両側には島津家と伊達の献納した燈籠が立ち並ぶ。左端に上神庫の屋根が写っている。Climbing up...
写真家集「小川一真(1860~1929)」(シート集)所収。彼は忍藩(現埼玉県行田市)生まれの写真家で、後年は写真版印刷業を営んだ。鎌倉に来た時期は不明だが、写された境内の様子から目録番号4674とほ...
日光東照宮の奥社の拝殿右側から本社の拝殿や陽明門などを見下ろしている。奥社の宝塔には徳川家康の眠る神柩(しんきゅう)が納められている。画面手前に見えるのは本社拝殿の屋根。画面中央の杉の右側にある白い柱...
明治元年の奥羽の乱、函館攻略の際戦死した振遠隊の隊員を祀った場所。現存せず、西小島町の大徳寺公園内の一角に「梅香崎招魂社並びに同墳墓地跡」の石碑が建てられていて、そこには佐古神社移転の旨記載されている...
明治10年(1876)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵比寿神社)を撮影したもので。同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家...
箱根権現として古くから信仰を集めてきた箱根神社である。特に、中世は、源頼朝を始めとする鎌倉幕府の信奉が厚く、曽我物語の舞台ともなっている。狛犬やお手植えの松がないことから、明治29年以前のものと分かる...
乳待山は言問橋上流右岸にあり、隅田川にある景勝の地。その丘上にあるのが、歓喜矢双身像を本尊とする聖観音宗本龍院、通称聖天さまである。手前に山谷堀に架かる今戸橋が見える。荷風の『すみだ川』にも描かれる。...
東照宮本殿の脇にある神輿舎(しんよしゃ)を背に境内の様子を写している。画面左端が唐門。中央の奥にあるのが祈祷殿(護摩堂)。右端が八乙女が神楽を舞う神楽殿。祈祷殿と神楽殿の間に見える回廊の入口に「眠り猫...
中山道の宿場町(詳細不明)の町並み。道の両側に立ち並ぶのいくつかは、紋章を付した看板を掲げている。木曽路とも呼ばれる中山道は、家康によって制定された五街道の一つだっが、明治維新以降は衰退の一途を辿った...
厳島神社は平安時代,平清盛によって整備され,今日にその姿を伝えている。写真は御本社平舞台西方から楽房・門客神社を望み,遠くにサクラ木が満開の塔の丘に豊国神社(千畳閣)や応永14年(1407)建立の五重...