写真家集「小川一真(1860~1929)」(シート集)所収。彼は忍藩(現埼玉県行田市)生まれの写真家で、後年は写真版印刷業を営んだ。鎌倉に来た時期は不明だが、写された境内の様子から目録番号4674とほぼ同時期の、明治20年代前半の撮影と考えられる。This is part of the "Ogawa Kazumasa (1860-1929) Collection." Ogawa was born in the Oshi district (present-day Gyoda City in Saitama Prefecture). He later ran a photographic printing business. Although it is not clear when he visited Kamakura, the details depicted indicate that the photograph was taken around the same time as photograph #4674, or between 1887 and 1892
安芸の宮島の厳島神社は推古天皇即位元年に創建され,平安時代末期に平清盛によって今日に伝わる社殿整備が行われ,皇室をはじめ,戦国大名などによって厚く信仰されてきた。現在,社殿建造物40棟が国宝・重要文化...
古くは亀戸天満宮だが、明治6年(1873)に亀戸神社、昭和11年(1936)には亀戸天神社と改称している。創建の頃は明暦の大火(1657)の直後で、幕府が本所を開発しようとする目論見の時であり、幕府か...
乳待山は言問橋上流右岸にあり、隅田川にある景勝の地。その丘上にあるのが、歓喜矢双身像を本尊とする聖観音宗本龍院、通称聖天さまである。手前に山谷堀に架かる今戸橋が見える。荷風の『すみだ川』にも描かれる。...
手前は文久2年(1862)江戸砂糖問屋衆寄進の石灯籠(現存)。正面奥は木の鳥居で、その後ろに神楽殿と上宮楼門が続く。ところで、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1865年2月11日号(慶応元年...
若宮の屋根に掛かる梯子は防火用か。隣は神楽殿(かぐらでん)の屋根であるが、やや傷んでいる。このような状態の神楽殿は、諸堂解体直後の境内の姿とされる『ザ・ファー・イースト』1871年9月1日号(旧暦明治...
目録番号4744から、若宮(わかみや)であることがわかる。鶴岡八幡宮は治承4年(1180)現若宮の所に勧請(かんじょう)されたという。写真の社殿は寛永元年(1624)の再建で、現重要文化財。屋根はこけ...
楼門(ろうもん)の向うにあるのは六角堂(ろっかくどう)。楼門の前には銅造灯籠と石灯籠が数基あるが、六角堂や銅造灯籠などは明治初年の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で除却された。なお、横浜開港資料館にベアト...
上宮廻廊(かいろう)内側の景。廻廊は文政11年(1828)の再建で、現重要文化財。軒下には優美な文様が描かれるが、この建物は昭和初期に修理されており、江戸期以来の文様を知る上で貴重である。なお、神輿(...
鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
左は鶴岡八幡宮の神楽殿(下拝殿)。階段の上には八幡宮の本殿が見える。階段は全部で62段。頼朝が鶴ケ岡(地名)から移した八幡宮は石段の下にあったと伝えられるが、建久2年(1193)に類焼したために同年1...
箱根権現として古くから信仰を集めてきた箱根神社である。特に、中世は、源頼朝を始めとする鎌倉幕府の信奉が厚く、曽我物語の舞台ともなっている。狛犬やお手植えの松がないことから、明治29年以前のものと分かる...
茨城県旭村の玉沢稲荷神社前の石段下で、家族4人が並んで記念撮影をする。同社は、陸奥の安倍氏の反乱を平定した源頼義・義家の父子が、康平6年(1063)に鎌倉権太夫景道に命じ、父子が平定に向かう際に戦勝祈...
明治10年(1876)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵比寿神社)を撮影したもので。同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
明治2年(1869)創建の招魂社には戊辰戦争の際に倒れた諸藩の士が祀られた。その後明治7年(1874)1の佐賀の乱や台湾征討での戦没者、さらに明治10年(1877)の西南戦争での戦没者なども合祀されて...
安芸の宮島の厳島神社は推古天皇即位元年に創建され,平安時代末期に平清盛によって今日に伝わる社殿整備が行われ,皇室をはじめ,戦国大名などによって厚く信仰されてきた。現在,社殿建造物40棟が国宝・重要文化...
古くは亀戸天満宮だが、明治6年(1873)に亀戸神社、昭和11年(1936)には亀戸天神社と改称している。創建の頃は明暦の大火(1657)の直後で、幕府が本所を開発しようとする目論見の時であり、幕府か...
乳待山は言問橋上流右岸にあり、隅田川にある景勝の地。その丘上にあるのが、歓喜矢双身像を本尊とする聖観音宗本龍院、通称聖天さまである。手前に山谷堀に架かる今戸橋が見える。荷風の『すみだ川』にも描かれる。...
手前は文久2年(1862)江戸砂糖問屋衆寄進の石灯籠(現存)。正面奥は木の鳥居で、その後ろに神楽殿と上宮楼門が続く。ところで、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1865年2月11日号(慶応元年...
若宮の屋根に掛かる梯子は防火用か。隣は神楽殿(かぐらでん)の屋根であるが、やや傷んでいる。このような状態の神楽殿は、諸堂解体直後の境内の姿とされる『ザ・ファー・イースト』1871年9月1日号(旧暦明治...
目録番号4744から、若宮(わかみや)であることがわかる。鶴岡八幡宮は治承4年(1180)現若宮の所に勧請(かんじょう)されたという。写真の社殿は寛永元年(1624)の再建で、現重要文化財。屋根はこけ...
楼門(ろうもん)の向うにあるのは六角堂(ろっかくどう)。楼門の前には銅造灯籠と石灯籠が数基あるが、六角堂や銅造灯籠などは明治初年の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で除却された。なお、横浜開港資料館にベアト...
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鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
左は鶴岡八幡宮の神楽殿(下拝殿)。階段の上には八幡宮の本殿が見える。階段は全部で62段。頼朝が鶴ケ岡(地名)から移した八幡宮は石段の下にあったと伝えられるが、建久2年(1193)に類焼したために同年1...
箱根権現として古くから信仰を集めてきた箱根神社である。特に、中世は、源頼朝を始めとする鎌倉幕府の信奉が厚く、曽我物語の舞台ともなっている。狛犬やお手植えの松がないことから、明治29年以前のものと分かる...
茨城県旭村の玉沢稲荷神社前の石段下で、家族4人が並んで記念撮影をする。同社は、陸奥の安倍氏の反乱を平定した源頼義・義家の父子が、康平6年(1063)に鎌倉権太夫景道に命じ、父子が平定に向かう際に戦勝祈...
明治10年(1876)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵比寿神社)を撮影したもので。同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
明治2年(1869)創建の招魂社には戊辰戦争の際に倒れた諸藩の士が祀られた。その後明治7年(1874)1の佐賀の乱や台湾征討での戦没者、さらに明治10年(1877)の西南戦争での戦没者なども合祀されて...
安芸の宮島の厳島神社は推古天皇即位元年に創建され,平安時代末期に平清盛によって今日に伝わる社殿整備が行われ,皇室をはじめ,戦国大名などによって厚く信仰されてきた。現在,社殿建造物40棟が国宝・重要文化...
古くは亀戸天満宮だが、明治6年(1873)に亀戸神社、昭和11年(1936)には亀戸天神社と改称している。創建の頃は明暦の大火(1657)の直後で、幕府が本所を開発しようとする目論見の時であり、幕府か...
乳待山は言問橋上流右岸にあり、隅田川にある景勝の地。その丘上にあるのが、歓喜矢双身像を本尊とする聖観音宗本龍院、通称聖天さまである。手前に山谷堀に架かる今戸橋が見える。荷風の『すみだ川』にも描かれる。...