廃寺となった大徳寺境内の裏口付近。旧大徳寺の正門は本籠町口であり裏門は楠稲荷神社の側であった。大楠の枝が垂れ下がっている。明治初年に廃寺となった大徳寺は現在梅ケ崎天満宮となっている。旧境内には梅香崎招魂社、振遠隊墓所、橋本氏の大徳園、大徳寺茶店などがあった。Rear entrance to the defunct Daitokuji. The main entrance of the temple faced Motokago-machi while the rear entrance led to Kusunoki Inari Shrine. The site of the former temple is now Umegasaki Tenmangu Shrine. Formerly located here were Umegasaki Shokonsha Shrine, Shin'entai Cemetery, Daitokuen Park of the Hashimoto family, and the teahouse of the temple
ベアトによる1866年3月6日の書き込み。長崎春徳寺境内の墓地。この寺はトードス・ロス・サントス(諸聖人)と称するキリスト教会が慶長19年に破壊されたあと開創された。芭蕉碑や去来塔などがある。Writ...
文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。こ...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
明治初年廃寺となった大徳寺境内の茶屋の絵葉書。現在梅ケ崎天満宮となっている。旧境内には梅香崎招魂社、振遠隊墓所、橋本氏の大徳園、大徳寺茶店などがあった。茶屋の名前として平山家の看板が見える。境内は38...
清水寺の本堂の左横から長崎市内を遠望している。大正期の絵葉書。本堂には周囲に幅1間半の石畳がめぐらされている。建物上部に巡らされた丸い外灯は時代の雰囲気を伝えている。前面に置かれた3基の石灯籠は文化8...
大正初期の清水寺の絵葉書。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その...
祖師堂の前から大黒堂を望む。池上本門寺は日蓮宗の宗祖日蓮が入滅した所。弘安5年(1282)、日蓮は湯治のため身延山を発し常陸に向かう徒次、池上宗仲邸で入滅した。宗仲が法華経の字数に合わせ約7万坪を寄進...
中山道沿いに位置すると思われる、みごとに根を張った巨木の姿。根本にしがみついている旅人からその大きさを推し量ることができる。右手奧の石灯籠や手前の石畳から考えて、あるいは寺社に縁のものかもしれない。A...
鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
画面には‘№531 KAMAKURA.'の印字がある。向かって左手には三代将軍源実朝の暗殺にまつわる伝説で名高い大銀杏(いちょう)があり(現神奈川県指定天然記念物)、その反対側にはソテツが植わる。年代...
楼門(ろうもん)の向うにあるのは六角堂(ろっかくどう)。楼門の前には銅造灯籠と石灯籠が数基あるが、六角堂や銅造灯籠などは明治初年の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で除却された。なお、横浜開港資料館にベアト...
福済寺の上の墓地から見た、長崎市街地北部と出島から大黒町に至る沿岸部。出島の変流工事が終わっておらず、明治10年代と思われる。出島から五島町に至る沿岸部は浦上新道の整備がされていない。写真右、松の木の...
幸田露伴『五重塔』にも描かれた天台宗天王寺の墓地。手前に人力車、その向こうにあるのは荷車か。道沿いに松や桜が並んでいる。五重塔は昭和32年心中放火事件のため消失。現在は礎石のみが残る。徳川慶喜の墓があ...
ベアトによる1866年3月6日の書き込み。長崎春徳寺境内の墓地。この寺はトードス・ロス・サントス(諸聖人)と称するキリスト教会が慶長19年に破壊されたあと開創された。芭蕉碑や去来塔などがある。Writ...
文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。こ...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
明治初年廃寺となった大徳寺境内の茶屋の絵葉書。現在梅ケ崎天満宮となっている。旧境内には梅香崎招魂社、振遠隊墓所、橋本氏の大徳園、大徳寺茶店などがあった。茶屋の名前として平山家の看板が見える。境内は38...
清水寺の本堂の左横から長崎市内を遠望している。大正期の絵葉書。本堂には周囲に幅1間半の石畳がめぐらされている。建物上部に巡らされた丸い外灯は時代の雰囲気を伝えている。前面に置かれた3基の石灯籠は文化8...
大正初期の清水寺の絵葉書。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その...
祖師堂の前から大黒堂を望む。池上本門寺は日蓮宗の宗祖日蓮が入滅した所。弘安5年(1282)、日蓮は湯治のため身延山を発し常陸に向かう徒次、池上宗仲邸で入滅した。宗仲が法華経の字数に合わせ約7万坪を寄進...
中山道沿いに位置すると思われる、みごとに根を張った巨木の姿。根本にしがみついている旅人からその大きさを推し量ることができる。右手奧の石灯籠や手前の石畳から考えて、あるいは寺社に縁のものかもしれない。A...
鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
画面には‘№531 KAMAKURA.'の印字がある。向かって左手には三代将軍源実朝の暗殺にまつわる伝説で名高い大銀杏(いちょう)があり(現神奈川県指定天然記念物)、その反対側にはソテツが植わる。年代...
楼門(ろうもん)の向うにあるのは六角堂(ろっかくどう)。楼門の前には銅造灯籠と石灯籠が数基あるが、六角堂や銅造灯籠などは明治初年の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で除却された。なお、横浜開港資料館にベアト...
福済寺の上の墓地から見た、長崎市街地北部と出島から大黒町に至る沿岸部。出島の変流工事が終わっておらず、明治10年代と思われる。出島から五島町に至る沿岸部は浦上新道の整備がされていない。写真右、松の木の...
幸田露伴『五重塔』にも描かれた天台宗天王寺の墓地。手前に人力車、その向こうにあるのは荷車か。道沿いに松や桜が並んでいる。五重塔は昭和32年心中放火事件のため消失。現在は礎石のみが残る。徳川慶喜の墓があ...
ベアトによる1866年3月6日の書き込み。長崎春徳寺境内の墓地。この寺はトードス・ロス・サントス(諸聖人)と称するキリスト教会が慶長19年に破壊されたあと開創された。芭蕉碑や去来塔などがある。Writ...
文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。こ...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...