明治初年廃寺となった大徳寺境内の茶屋の絵葉書。現在梅ケ崎天満宮となっている。旧境内には梅香崎招魂社、振遠隊墓所、橋本氏の大徳園、大徳寺茶店などがあった。茶屋の名前として平山家の看板が見える。境内は3870坪(12,771平方メートル)あった。Picture postcard of the teahouse at Daitokuji Temple which closed in 1868. The site of the former temple is now Umegasaki Tenmangu Shrine. Formerly located here were Umegasaki Shokonsha Shrine, Shin'entai Cemetery, Daitokuen Park of the Hashimoto family, and the teahouse of the temple. The sign on the teahouse, "Hirayama-ke" is visible. The temple grounds once measured 12,771 square meters
墨提は花見の名所。道の両端に咲いた桜の並木が見事である。休処にかけてある提灯は夜桜見物のためであろうか。その傍らには土産物を売るスタンドのようなものも見える。Bokutei is a favourit...
大正初期の清水寺の絵葉書。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その...
馬返しは中禅寺道の起点であり、これよりつづら折の山道の難所を経て大平に至る。写真には山駕籠と茶屋が写っている。茶屋はつた屋であろう。Umagaeshi is the starting point of...
廃寺となった大徳寺境内の裏口付近。旧大徳寺の正門は本籠町口であり裏門は楠稲荷神社の側であった。大楠の枝が垂れ下がっている。明治初年に廃寺となった大徳寺は現在梅ケ崎天満宮となっている。旧境内には梅香崎招...
嵐山温泉北側の保津川北岸から上流を望む。萱葺の方形屋根の茶店には、壁がなく角材の柱がむき出しとなっている。中には長机と長椅子が置かれ、着物姿の女性が座り休憩している。辺りには植えられたばかりの立木が見...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
下鴨神社の御手洗(みたらし)川を望む。橋の上を人力車に乗った女性と日傘を差した女性がすれ違う。橋の両岸には屋根つきの納涼床が設けられている。御手洗川は下鴨神社内の御手洗社から湧き出る井戸を水源とする。...
元町通りの中程、元町百段と呼ばれる石段を登ると浅間神社があり、境内に「田辺の茶屋」があった。ここは市街を一望できる展望台として内外人で賑わったが、関東大震災で階段もろとも崩壊し、神社は丘の麓に再建され...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。中央に見えている塔は、...
江ノ島の対岸片瀬の二階建ての茶屋。1階の障子には「御休泊」「御茶漬」などと書かれている。画面左には石段と1対の石灯篭が見え、その背後は森になっている。A two-story teahouse in K...
元治元年(1864)末、生麦事件に懲りた幕府は、外国人の足を東海道から遠ざけるため、横浜の東南方、根岸から本牧にかけて、外国人遊歩新道を開設した。沿道には外国人相手の茶屋が建っていた。これはそのうちの...
紅葉で有名な滝野川の金剛寺。紅葉寺とも呼ばれ、文人墨客や行楽客が多数訪れた。こうした風景の観光が成立するためには、水墨画から日本庭園へ、日本庭園から自然の風景へと、鑑賞の翻訳が必要となる。Kongoj...
幕末、山手の南、本牧と根岸には外国人遊歩道が開かれた。本牧十二天は風光明媚であり支道が通じていた。十二天社は本牧本郷村の鎮守である。写真は海岸に突き出した茶屋であり、海水浴場でもあった。In the ...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
王子は江戸から離れた所であったが、飛鳥山が花見の名所、滝野川が紅葉の名所となり、王子稲荷信仰が人気になると、王子稲荷門前から飛鳥山の麓まで約4町余(450m程)の参道には、茶店や料理屋が軒を並べるよう...
墨提は花見の名所。道の両端に咲いた桜の並木が見事である。休処にかけてある提灯は夜桜見物のためであろうか。その傍らには土産物を売るスタンドのようなものも見える。Bokutei is a favourit...
大正初期の清水寺の絵葉書。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その...
馬返しは中禅寺道の起点であり、これよりつづら折の山道の難所を経て大平に至る。写真には山駕籠と茶屋が写っている。茶屋はつた屋であろう。Umagaeshi is the starting point of...
廃寺となった大徳寺境内の裏口付近。旧大徳寺の正門は本籠町口であり裏門は楠稲荷神社の側であった。大楠の枝が垂れ下がっている。明治初年に廃寺となった大徳寺は現在梅ケ崎天満宮となっている。旧境内には梅香崎招...
嵐山温泉北側の保津川北岸から上流を望む。萱葺の方形屋根の茶店には、壁がなく角材の柱がむき出しとなっている。中には長机と長椅子が置かれ、着物姿の女性が座り休憩している。辺りには植えられたばかりの立木が見...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
下鴨神社の御手洗(みたらし)川を望む。橋の上を人力車に乗った女性と日傘を差した女性がすれ違う。橋の両岸には屋根つきの納涼床が設けられている。御手洗川は下鴨神社内の御手洗社から湧き出る井戸を水源とする。...
元町通りの中程、元町百段と呼ばれる石段を登ると浅間神社があり、境内に「田辺の茶屋」があった。ここは市街を一望できる展望台として内外人で賑わったが、関東大震災で階段もろとも崩壊し、神社は丘の麓に再建され...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。中央に見えている塔は、...
江ノ島の対岸片瀬の二階建ての茶屋。1階の障子には「御休泊」「御茶漬」などと書かれている。画面左には石段と1対の石灯篭が見え、その背後は森になっている。A two-story teahouse in K...
元治元年(1864)末、生麦事件に懲りた幕府は、外国人の足を東海道から遠ざけるため、横浜の東南方、根岸から本牧にかけて、外国人遊歩新道を開設した。沿道には外国人相手の茶屋が建っていた。これはそのうちの...
紅葉で有名な滝野川の金剛寺。紅葉寺とも呼ばれ、文人墨客や行楽客が多数訪れた。こうした風景の観光が成立するためには、水墨画から日本庭園へ、日本庭園から自然の風景へと、鑑賞の翻訳が必要となる。Kongoj...
幕末、山手の南、本牧と根岸には外国人遊歩道が開かれた。本牧十二天は風光明媚であり支道が通じていた。十二天社は本牧本郷村の鎮守である。写真は海岸に突き出した茶屋であり、海水浴場でもあった。In the ...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
王子は江戸から離れた所であったが、飛鳥山が花見の名所、滝野川が紅葉の名所となり、王子稲荷信仰が人気になると、王子稲荷門前から飛鳥山の麓まで約4町余(450m程)の参道には、茶店や料理屋が軒を並べるよう...
墨提は花見の名所。道の両端に咲いた桜の並木が見事である。休処にかけてある提灯は夜桜見物のためであろうか。その傍らには土産物を売るスタンドのようなものも見える。Bokutei is a favourit...
大正初期の清水寺の絵葉書。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その...
馬返しは中禅寺道の起点であり、これよりつづら折の山道の難所を経て大平に至る。写真には山駕籠と茶屋が写っている。茶屋はつた屋であろう。Umagaeshi is the starting point of...