中山道沿いに位置すると思われる、みごとに根を張った巨木の姿。根本にしがみついている旅人からその大きさを推し量ることができる。右手奧の石灯籠や手前の石畳から考えて、あるいは寺社に縁のものかもしれない。A huge tree magnificent with its roots growing in all directions. The size can be observed from the traveler beholding the trunk. Considering the stone lantern to the right rear and the stone pavement in the fore, it could have some relations to a temple or shrine
上野公園黒門通りを南から写したものである。右に大きく曲がった先に現在は東京国立博物館がある。正面の桜並木の奥の森に東照宮がある。人力車の車夫以外に人影が無く、まだ花見客もいない早朝の公園と思われる。K...
東海道線の西の起点、神戸駅付近から、北の湊川神社正門を眺めた風景。現中央区。明治中期の撮影だろう。右に見える演劇場は、明治23年 (1890) に大改築された大黒座。入口には目新しい電灯が設置されてい...
不忍池中島は、古くからあった小島を足掛かりに、水谷伊勢守勝隆が上野の山の土で埋め立てて築いた人工の島である。天海僧正によって、琵琶湖竹生島の弁財天が勧請され、多くの参詣者で賑わった。これらの堂宇は昭和...
鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
画面には‘№531 KAMAKURA.'の印字がある。向かって左手には三代将軍源実朝の暗殺にまつわる伝説で名高い大銀杏(いちょう)があり(現神奈川県指定天然記念物)、その反対側にはソテツが植わる。年代...
中山道洗馬宿入り口付近の風景。写真全体を占める「肘松」とは、細川幽齋が肘をかけて歌を詠じたという肘懸松のことと思われる。その根本でくつろぐ旅人や作業衣の女性の姿も見える。A view of the a...
廃寺となった大徳寺境内の裏口付近。旧大徳寺の正門は本籠町口であり裏門は楠稲荷神社の側であった。大楠の枝が垂れ下がっている。明治初年に廃寺となった大徳寺は現在梅ケ崎天満宮となっている。旧境内には梅香崎招...
一遍(いっぺん)を開祖とする時宗(じしゅう)の総本山。正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)。四代呑海(どんかい)が正中2年(1325)に創建した。写真は左...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
子供が子守をしながらの花見である。社地には梅と桜が数百株植えられたそうだ。現在は桜が1000本あるという。昭和40年(1965)から、東京の桜の開花宣言は、ここ靖国神社の桜を基準にして発せられている。...
写っているのは日光街道の杉並木ではない。場所は日光山内の東照宮から二荒山神社に通じる上新道(かみしんみち)。画面は二荒山神社側から東照宮方面を写している。杉木立の間に見える建物は本地堂(ほんじどう)と...
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の左側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This h...
現在はぼたん苑で有名な上野東照宮だが、 これは80年に作られたもので、 当時はまだなかった。 現在の動物園になっている広大な敷地は、 藤堂高虎が日光廟へ参拝せずにすむように自宅の土地を提供したもの。T...
上野公園黒門通りを南から写したものである。右に大きく曲がった先に現在は東京国立博物館がある。正面の桜並木の奥の森に東照宮がある。人力車の車夫以外に人影が無く、まだ花見客もいない早朝の公園と思われる。K...
東海道線の西の起点、神戸駅付近から、北の湊川神社正門を眺めた風景。現中央区。明治中期の撮影だろう。右に見える演劇場は、明治23年 (1890) に大改築された大黒座。入口には目新しい電灯が設置されてい...
不忍池中島は、古くからあった小島を足掛かりに、水谷伊勢守勝隆が上野の山の土で埋め立てて築いた人工の島である。天海僧正によって、琵琶湖竹生島の弁財天が勧請され、多くの参詣者で賑わった。これらの堂宇は昭和...
鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
大徳寺境内の大楠。大正初期の絵葉書写真。大徳寺は宝永元(1704)年伊勢町からこの梅香崎に移転し、同4(1707)年免税御朱印状を受けた高い寺格であったが同5(1708)年本籠町の現在地に移転した。外...
画面には‘№531 KAMAKURA.'の印字がある。向かって左手には三代将軍源実朝の暗殺にまつわる伝説で名高い大銀杏(いちょう)があり(現神奈川県指定天然記念物)、その反対側にはソテツが植わる。年代...
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一遍(いっぺん)を開祖とする時宗(じしゅう)の総本山。正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)。四代呑海(どんかい)が正中2年(1325)に創建した。写真は左...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
子供が子守をしながらの花見である。社地には梅と桜が数百株植えられたそうだ。現在は桜が1000本あるという。昭和40年(1965)から、東京の桜の開花宣言は、ここ靖国神社の桜を基準にして発せられている。...
写っているのは日光街道の杉並木ではない。場所は日光山内の東照宮から二荒山神社に通じる上新道(かみしんみち)。画面は二荒山神社側から東照宮方面を写している。杉木立の間に見える建物は本地堂(ほんじどう)と...
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の左側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This h...
現在はぼたん苑で有名な上野東照宮だが、 これは80年に作られたもので、 当時はまだなかった。 現在の動物園になっている広大な敷地は、 藤堂高虎が日光廟へ参拝せずにすむように自宅の土地を提供したもの。T...
上野公園黒門通りを南から写したものである。右に大きく曲がった先に現在は東京国立博物館がある。正面の桜並木の奥の森に東照宮がある。人力車の車夫以外に人影が無く、まだ花見客もいない早朝の公園と思われる。K...
東海道線の西の起点、神戸駅付近から、北の湊川神社正門を眺めた風景。現中央区。明治中期の撮影だろう。右に見える演劇場は、明治23年 (1890) に大改築された大黒座。入口には目新しい電灯が設置されてい...
不忍池中島は、古くからあった小島を足掛かりに、水谷伊勢守勝隆が上野の山の土で埋め立てて築いた人工の島である。天海僧正によって、琵琶湖竹生島の弁財天が勧請され、多くの参詣者で賑わった。これらの堂宇は昭和...