明治中頃の居留地海岸通(現中央区)を、西端から東へ向かって撮影。左から、2番の香港上海銀行 (The Hong Kong and Shanghai Banking Corporation)をはじめ、商館・銀行・領事館などが建ち並び、当時のにぎわいぶりがしのばれる。右手海岸には、外国人が散歩を楽しんだプロムナードが見える。View of the waterfront street in the foreign settlement (present-day Chuo Ward), looking from the western edge facing east in the mid-Meiji Period. The building on the left is the Kobe branch of Hong Kong and Shanghai Banking Corporation. Trading companies, banks and consulates line the street, revealing the port in its heyday. On the right is a promenade where foreigners enjoyed strolling
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(187...
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。彩色は施されていないが目録番号4480と同じ写真。中央の、東西の道路に面した左右対称の建物は、明治11年新設の (神戸師範学校) 附属小学校の校舎、その向こうには、明...
神戸外国人居留地内の街路。居留地海岸通り。The streets in the foreign settlement of Kobe. The waterfront avenue in the set...
開港の混乱を避けるため、兵庫の港よりやや離れて居留地に指定された神戸であったが、この地も良港に恵まれ、まもなく兵庫をしのぐ国際貿易都市として急速に発展していった。To avoid turmoil wh...
明治24年(1891)8月の台風による被害を撮影した写真である。神戸外国人居留地の海岸通りの被害状況である。石垣を乗り越えて材木が打ち上げられている。また、歩道の敷石が剥がれている。This phot...
手前を走る谷戸坂の左手、煙突をもつ建物は横浜アイス・ワークス。堀川を隔てて向こうが山下居留地で、画面中央の大きな和風屋根が載る建物が旧ヘボン邸。右奥にはグランド・ホテル旧館が見える。The build...
山手より神戸港を望む。1861年の兵庫開港の際、外国人居留地に指定されたのが、生田川から宇治川に至る、やや東に離れた地域であった。この地が発展して、現在の神戸となっている。A view of Kobe...
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋...
52・72番付近を西から見る 右手はクック夫妻の文具・服飾品店(72番)。その向こうは雑貨・食料品商のラングフェルト&メイヤーズ(Langfeldt & Mayers,73番)。左手はホテル&レストラ...
明治4年5月17日 (1871年7月4日)に神戸を襲った台風直後の、雑居地海岸通(現中央区)。メリケン波止場付近から西方を望む。右端の、ベランダの破壊された建物は、建築中のヒョーゴ・ホテル (The ...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
本稿は平成十三年度科学研究費補助金(基盤研究B)「前近代東アジア海洋域圏の比較史的研究ー日・中•朝三国の政治・社会的連環ー」(代表者・京都女子大学植松正教授)による成果の一部である
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。彩色は異なるが目録番号4485と同じ写真。南北の道路右側の屋敷は、小寺泰次郎 (こでらやすじろう) 邸。昭和16年に この屋敷を神戸市が譲り受け「相楽園」と名付ける。...
詳細位置不明。幅広い道路に沿って立ち並ぶ多数の洋風建築と、路上の人力車が写し出されている。Exact location unknown.Western buildings and a rickshaw...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(187...
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。彩色は施されていないが目録番号4480と同じ写真。中央の、東西の道路に面した左右対称の建物は、明治11年新設の (神戸師範学校) 附属小学校の校舎、その向こうには、明...
神戸外国人居留地内の街路。居留地海岸通り。The streets in the foreign settlement of Kobe. The waterfront avenue in the set...
開港の混乱を避けるため、兵庫の港よりやや離れて居留地に指定された神戸であったが、この地も良港に恵まれ、まもなく兵庫をしのぐ国際貿易都市として急速に発展していった。To avoid turmoil wh...
明治24年(1891)8月の台風による被害を撮影した写真である。神戸外国人居留地の海岸通りの被害状況である。石垣を乗り越えて材木が打ち上げられている。また、歩道の敷石が剥がれている。This phot...
手前を走る谷戸坂の左手、煙突をもつ建物は横浜アイス・ワークス。堀川を隔てて向こうが山下居留地で、画面中央の大きな和風屋根が載る建物が旧ヘボン邸。右奥にはグランド・ホテル旧館が見える。The build...
山手より神戸港を望む。1861年の兵庫開港の際、外国人居留地に指定されたのが、生田川から宇治川に至る、やや東に離れた地域であった。この地が発展して、現在の神戸となっている。A view of Kobe...
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋...
52・72番付近を西から見る 右手はクック夫妻の文具・服飾品店(72番)。その向こうは雑貨・食料品商のラングフェルト&メイヤーズ(Langfeldt & Mayers,73番)。左手はホテル&レストラ...
明治4年5月17日 (1871年7月4日)に神戸を襲った台風直後の、雑居地海岸通(現中央区)。メリケン波止場付近から西方を望む。右端の、ベランダの破壊された建物は、建築中のヒョーゴ・ホテル (The ...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
本稿は平成十三年度科学研究費補助金(基盤研究B)「前近代東アジア海洋域圏の比較史的研究ー日・中•朝三国の政治・社会的連環ー」(代表者・京都女子大学植松正教授)による成果の一部である
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。彩色は異なるが目録番号4485と同じ写真。南北の道路右側の屋敷は、小寺泰次郎 (こでらやすじろう) 邸。昭和16年に この屋敷を神戸市が譲り受け「相楽園」と名付ける。...
詳細位置不明。幅広い道路に沿って立ち並ぶ多数の洋風建築と、路上の人力車が写し出されている。Exact location unknown.Western buildings and a rickshaw...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(187...
諏訪山から神戸港を望む。明治中期。彩色は施されていないが目録番号4480と同じ写真。中央の、東西の道路に面した左右対称の建物は、明治11年新設の (神戸師範学校) 附属小学校の校舎、その向こうには、明...