ODAWARAとの書き込みがあるが、実際は神奈川台町の関門。外国人殺傷事件が相次いだことを受けて、警備体制の強化のために幕府が設置したもの。神奈川では東西の二箇所に設置された。写真は左手が海側。The photograph bears the inscription "ODAWARA" but actually portrays the checkpoint at Kanagawadai-machi. In response to a number of murderous attacks on foreigners, the Shogunate enforced security measures and established several checkpoints, including two in Kanagawa. The coast of the Pacific Ocean is on the left
伏見稲荷大社境内南東側の稲荷山参道に林立する朱塗の千本鳥居を望む。参道は同社境内東側の上御殿から南東方向に延び、稲荷山入口の命婦社に続く。写真は鳥居に記された年号から明治26年(1893)2月以降に撮...
明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。...
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。中央を通る田沼街道沿いに小商人・小職人の町屋が並び、川崎湊の発展に伴ってにぎわいを見せたという。この写真は町から外れた、景観の良い街道筋であろう。Kash...
神奈川は東海道に面した、細長い宿場町である。街道の関門が撮影されている。F.ベアトアルバムの写真である。Kanagawa was a long and narrow lodging town on t...
現在も小田原市国府津に鉄筋に変わって現存する親木橋である。今でも松が、橋の両側に同様な姿で残る。橋の下の川は森戸川。この橋は、東海道が通る交通の要衝で、今も交通量が多い。上野彦馬にも同じ写真がある。T...
バンド(Bund)全景。イギリス波止場からの撮影。海岸通は明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。植樹時期より撮影は明治20年代か。左端に見えるのがフランス波止...
旧神奈川宿の台町を東から西方向に撮影したものであろう。宿場時代の面影を伝える写真である。左手の家並みの裏手の崖下は、袖ヶ浦と呼ばれる海で、江戸時代には風光明媚なことで知られた。右手の丘は高島台、坂を上...
風頭山から飽の浦と長崎港を眺望する。左端の樹木の繁る丘は東山手、中央より右寄りに出島。中島川の河口には、明治2年(1869)に架けられた新大橋が見える。漆喰で塗られた瓦屋根が目立つ明治10年代の長崎の...
小田原城の南曲輪西隅櫓で、明治3年(1870)末に取り壊される直前の写真であろう。"The Far East"明治4年(1871)12月1日に掲載。堀が畑に変わっているのは大政奉還で禄を失った藩士救済...
ベアト撮影。「横浜近くの神道の寺の入り口、64年8月7日」と記されている。これは横浜の弁天社である。この神社は横浜村の鎮守として洲干弁財天社と呼ばれた。Taken by Beato. Written ...
風頭から旧市街南部を望んだ写真である。小島ごしに東山手と長崎港の入口にアングルが向けられている。写真左下に英語で「長崎港」という意味の説明。A photo of the view from Mt. K...
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。大正初期の写真である。右下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、中奥には明治44(1911)年に3階建てとなった県庁...
ベアト撮影。「陽の当たる丘からの横浜の景色」とキャプションに書かれている。これは山手からみた元町と外国人居留地と思われる。谷間には墓石が並んだ墓地が見える。Taken by Beato. The ca...
瀬戸の料亭。平潟湾の眺望にすぐれ、明治以降、多くの文人や政治家たちが利用した。写真は瀬戸橋から撮影したもの。三棟のうち一番左が千代本楼(ちよもとろう)。正面に写る茶屋は扇屋(おうぎや)か村田屋か。Te...
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。The photo can be dated d...
伏見稲荷大社境内南東側の稲荷山参道に林立する朱塗の千本鳥居を望む。参道は同社境内東側の上御殿から南東方向に延び、稲荷山入口の命婦社に続く。写真は鳥居に記された年号から明治26年(1893)2月以降に撮...
明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。...
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。中央を通る田沼街道沿いに小商人・小職人の町屋が並び、川崎湊の発展に伴ってにぎわいを見せたという。この写真は町から外れた、景観の良い街道筋であろう。Kash...
神奈川は東海道に面した、細長い宿場町である。街道の関門が撮影されている。F.ベアトアルバムの写真である。Kanagawa was a long and narrow lodging town on t...
現在も小田原市国府津に鉄筋に変わって現存する親木橋である。今でも松が、橋の両側に同様な姿で残る。橋の下の川は森戸川。この橋は、東海道が通る交通の要衝で、今も交通量が多い。上野彦馬にも同じ写真がある。T...
バンド(Bund)全景。イギリス波止場からの撮影。海岸通は明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。植樹時期より撮影は明治20年代か。左端に見えるのがフランス波止...
旧神奈川宿の台町を東から西方向に撮影したものであろう。宿場時代の面影を伝える写真である。左手の家並みの裏手の崖下は、袖ヶ浦と呼ばれる海で、江戸時代には風光明媚なことで知られた。右手の丘は高島台、坂を上...
風頭山から飽の浦と長崎港を眺望する。左端の樹木の繁る丘は東山手、中央より右寄りに出島。中島川の河口には、明治2年(1869)に架けられた新大橋が見える。漆喰で塗られた瓦屋根が目立つ明治10年代の長崎の...
小田原城の南曲輪西隅櫓で、明治3年(1870)末に取り壊される直前の写真であろう。"The Far East"明治4年(1871)12月1日に掲載。堀が畑に変わっているのは大政奉還で禄を失った藩士救済...
ベアト撮影。「横浜近くの神道の寺の入り口、64年8月7日」と記されている。これは横浜の弁天社である。この神社は横浜村の鎮守として洲干弁財天社と呼ばれた。Taken by Beato. Written ...
風頭から旧市街南部を望んだ写真である。小島ごしに東山手と長崎港の入口にアングルが向けられている。写真左下に英語で「長崎港」という意味の説明。A photo of the view from Mt. K...
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。大正初期の写真である。右下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、中奥には明治44(1911)年に3階建てとなった県庁...
ベアト撮影。「陽の当たる丘からの横浜の景色」とキャプションに書かれている。これは山手からみた元町と外国人居留地と思われる。谷間には墓石が並んだ墓地が見える。Taken by Beato. The ca...
瀬戸の料亭。平潟湾の眺望にすぐれ、明治以降、多くの文人や政治家たちが利用した。写真は瀬戸橋から撮影したもの。三棟のうち一番左が千代本楼(ちよもとろう)。正面に写る茶屋は扇屋(おうぎや)か村田屋か。Te...
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。The photo can be dated d...
伏見稲荷大社境内南東側の稲荷山参道に林立する朱塗の千本鳥居を望む。参道は同社境内東側の上御殿から南東方向に延び、稲荷山入口の命婦社に続く。写真は鳥居に記された年号から明治26年(1893)2月以降に撮...
明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。...
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。中央を通る田沼街道沿いに小商人・小職人の町屋が並び、川崎湊の発展に伴ってにぎわいを見せたという。この写真は町から外れた、景観の良い街道筋であろう。Kash...