山梨県富士吉田市あたりから南方の富士山を遠望したものか。富士山の稜線には宝永山の突起はなく、愛鷹山(あしたかやま)もみえないため、静岡県三島市とは考えられない。撮影地は湧水が豊富で、民家では湧水の流れを利用して水車を回している。手書きの番号と撮影地の書き込み方からF・ベアト撮影の可能性が高い。Mt. Fuji viewed from Fuji Yoshida City in Yamanashi Prefecture, facing south (?). The location cannot be Mishima City, Shizuoka Prefecture as written at the bottom of the photograph because neither Mt. Hoei nor Mt. Ashitaka are visible. The families living here used watermills to harness the plentiful spring water in the area. The handwritten number and location indicate that this is the work of Felix Beato
鈴川は元吉原ともいい、吉原の駅が寛永16年(1639)水害をさけて、移動したのち、鈴川駅が作られたという。富士に最も近い鉄道の駅があり、海浜には田子の浦が広がっている。Suzu River was f...
明治末年に撮影された茂木街道道中の水車小屋。旅人はこの場所で休息したようで、明治初期にも同じ場所での水車小屋の写真が残されている。写されている人物は子供の行水のようである。明治初期の水車と比べると、轍...
山梨県富士河口湖町所在の河口湖畔から富士山を望んだ写真である。写真の湖面に富士山が逆さに映るため、「逆さ富士」の光景を収める目的で撮影されたものであろう。河口湖東北端に位置する産屋ヶ崎周辺から湖面に浮...
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真は、1枚物やそれをアルバムにしているのに対して、個人アルバムである。神戸市内近郊と思われるが、場所は未詳。P...
現在の宮城野宝珠院駐車場の位置からの北東方向の眺望。水車小屋は今は民家に変わったが、その前の瀬戸沢の流れや水車小屋左横の水路も全く同様に現存する。駕籠かきの立つ場所は昭和50年頃まで実際、田であった。...
江戸時代、土木工事が発達していなかったために架橋が困難な河川が多数あった。富士川もその一つで、橋はなく、旅人たちは通行にはなはだ苦労したという。明治以降は、その豊富な水資源を利用して、大製紙工業地帯の...
岩淵は富士川左岸に位置する幕府領。手前は富士川の渡し船であろうか?慶長7年幕府から渡船役が課され、渡船役持ち10名によって運営されたという。遠く、橋にかかる木製の橋が見える。Iwabuchi was ...
画面左に見事な水車が見える。大宮は富士川水系潤井川中流左岸に位置する。近世、甲州路の要地として、大宮浅間神社を中心とした経済の中心地であった。安永年間からは東海道吉原宿の臨時助郷を勤めた。A magn...
地点は定かでないが、富士山の大きさや山容、その他の地形から見て、富士川の流域のように見える。The location of this photograph is unclear, but the si...
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周辺は浮島ケ原の湿地帯で、川舟で移動するため、水路網が発達していた...
富士五湖のひとつである本栖湖の北西側から富士山を望んだ写真(「目録番号3338」)のステレオ写真である。写真注記には「文人画家に愛された壮麗なる富士、本栖湖の北西より望む」とあり、木立の間から奥行きあ...
現在の山中城跡付近から見た富士山。小林清親の「従箱根山中富嶽眺望」と題する明治10年(1878)の版画に電信柱までそっくりのものがあり、恐らく写真で版画を再現したのであろう。蓮杖は清親と交際があったら...
富士市吉原本町(東海道吉原宿)あたりから北方の富士山を遠望したもの。富士山の右側の稜線には宝永山が見えるため、駿河湾川から撮影したことは確実だが、詳細な撮影地点は不明。写真中央には木々の茂った大きな茅...
富士山の西側を流れる川。甲府の釜無川(八ヶ岳駒ヶ岳に発する)と笛吹川の二つの河川を水源とする。この川ではろ艫の反り底が平らで、吃水も浅い舟を使うという。下る場合は竿を使い、登る場合は綱を引いて舟を上流...
富士市柏原新田(かしわばらしんでん)付近の浮島沼(うきしまぬま)から北方の富士山を遠望したもの。浮島沼は富士山・愛鷹山(あしたかやま)の南麓と駿河湾の間の低地部にあった沼で、水は沼川を通って田子ノ浦に...
鈴川は元吉原ともいい、吉原の駅が寛永16年(1639)水害をさけて、移動したのち、鈴川駅が作られたという。富士に最も近い鉄道の駅があり、海浜には田子の浦が広がっている。Suzu River was f...
明治末年に撮影された茂木街道道中の水車小屋。旅人はこの場所で休息したようで、明治初期にも同じ場所での水車小屋の写真が残されている。写されている人物は子供の行水のようである。明治初期の水車と比べると、轍...
山梨県富士河口湖町所在の河口湖畔から富士山を望んだ写真である。写真の湖面に富士山が逆さに映るため、「逆さ富士」の光景を収める目的で撮影されたものであろう。河口湖東北端に位置する産屋ヶ崎周辺から湖面に浮...
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真は、1枚物やそれをアルバムにしているのに対して、個人アルバムである。神戸市内近郊と思われるが、場所は未詳。P...
現在の宮城野宝珠院駐車場の位置からの北東方向の眺望。水車小屋は今は民家に変わったが、その前の瀬戸沢の流れや水車小屋左横の水路も全く同様に現存する。駕籠かきの立つ場所は昭和50年頃まで実際、田であった。...
江戸時代、土木工事が発達していなかったために架橋が困難な河川が多数あった。富士川もその一つで、橋はなく、旅人たちは通行にはなはだ苦労したという。明治以降は、その豊富な水資源を利用して、大製紙工業地帯の...
岩淵は富士川左岸に位置する幕府領。手前は富士川の渡し船であろうか?慶長7年幕府から渡船役が課され、渡船役持ち10名によって運営されたという。遠く、橋にかかる木製の橋が見える。Iwabuchi was ...
画面左に見事な水車が見える。大宮は富士川水系潤井川中流左岸に位置する。近世、甲州路の要地として、大宮浅間神社を中心とした経済の中心地であった。安永年間からは東海道吉原宿の臨時助郷を勤めた。A magn...
地点は定かでないが、富士山の大きさや山容、その他の地形から見て、富士川の流域のように見える。The location of this photograph is unclear, but the si...
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周辺は浮島ケ原の湿地帯で、川舟で移動するため、水路網が発達していた...
富士五湖のひとつである本栖湖の北西側から富士山を望んだ写真(「目録番号3338」)のステレオ写真である。写真注記には「文人画家に愛された壮麗なる富士、本栖湖の北西より望む」とあり、木立の間から奥行きあ...
現在の山中城跡付近から見た富士山。小林清親の「従箱根山中富嶽眺望」と題する明治10年(1878)の版画に電信柱までそっくりのものがあり、恐らく写真で版画を再現したのであろう。蓮杖は清親と交際があったら...
富士市吉原本町(東海道吉原宿)あたりから北方の富士山を遠望したもの。富士山の右側の稜線には宝永山が見えるため、駿河湾川から撮影したことは確実だが、詳細な撮影地点は不明。写真中央には木々の茂った大きな茅...
富士山の西側を流れる川。甲府の釜無川(八ヶ岳駒ヶ岳に発する)と笛吹川の二つの河川を水源とする。この川ではろ艫の反り底が平らで、吃水も浅い舟を使うという。下る場合は竿を使い、登る場合は綱を引いて舟を上流...
富士市柏原新田(かしわばらしんでん)付近の浮島沼(うきしまぬま)から北方の富士山を遠望したもの。浮島沼は富士山・愛鷹山(あしたかやま)の南麓と駿河湾の間の低地部にあった沼で、水は沼川を通って田子ノ浦に...
鈴川は元吉原ともいい、吉原の駅が寛永16年(1639)水害をさけて、移動したのち、鈴川駅が作られたという。富士に最も近い鉄道の駅があり、海浜には田子の浦が広がっている。Suzu River was f...
明治末年に撮影された茂木街道道中の水車小屋。旅人はこの場所で休息したようで、明治初期にも同じ場所での水車小屋の写真が残されている。写されている人物は子供の行水のようである。明治初期の水車と比べると、轍...
山梨県富士河口湖町所在の河口湖畔から富士山を望んだ写真である。写真の湖面に富士山が逆さに映るため、「逆さ富士」の光景を収める目的で撮影されたものであろう。河口湖東北端に位置する産屋ヶ崎周辺から湖面に浮...