本町通りの1丁目から2丁目を見る。本町通りは開港以来の関内のメイン・ストリートで、このあたりには有力貿易商の店が軒を連ねていた。右手前の蔵造の建物は、2丁目角に建つ平沼商店(石炭屋)で、その奥の洋風建築が田中新七商店。View from Honcho Dori 1-chome to 2-chome. Honmachi Dori served as Yokohama's main street from the opening of the port, and many large trading companies had offices here. The fireproof warehouse-style building on the right is Hiranuma Shoten, a charcoal shop standing on the corner of 2-chome. The Western-style building next door is Tanaka Shinshichi Shoten
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。町を貫く通り(現元町通り)の突き当たりには、この増徳院が位置していた。写真は、本堂脇の薬師堂。その後薬師堂は、移転を経...
本町通りの1丁目から2丁目を見る。本町通りは開港以来の関内のメイン・ストリートで、このあたりには有力貿易商の店が軒を連ねていた。右手前の蔵造の建物は、2丁目角に建つ平沼商店(石炭屋)で、その奥の洋風建...
増徳院境内から元町通りを見る。山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。居留外国人の需要に応ずる商業地として発展した。左手の山上に見えるのは、元町百段上の浅間神...
海岸通りの4番・5番付近。開港直後の居留地には海岸通りは存在せず、文久年間に新設されたものと考えられる。明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。写真は植樹以前の...
関内のメインストリートである本町通りから2本南を走る弁天通りは、原商店・茂木商店・小野商店などの大生糸売込商の店舗が軒を連ねる、横浜貿易の中心街であった。ガス灯の配置からすると、弁天通1丁目か。The...
2276と同様に仲見世入口(現雷門のある位置)から北に向いて写している。雷門から仁王門の間に並ぶ商店街を仲見世という。発端は近くの住民に浅草寺の清掃を頼んだ見返りに出店を許可したもの。明治18年(18...
八坂神社西楼門より四条通(祇園石段下)を西に望む。右方の狛犬は、明治15年(1882)に四条室町東入ル函谷鉾町の岩田忠兵衛と小泉新七が有志者を募り、家内安全と子孫長久を祈願し、八坂神社に奉献したもので...
目録番号3163と同じアングルだが、撮影年代は3163より下る。左手のジャーマンクラブは2階のベランダが改築されて室内に取り込まれており、右手の横浜郵便局は、明治22年(1889)に横浜郵便電信局とし...
52・72番付近を西から見る 右手はクック夫妻の文具・服飾品店(72番)。その向こうは雑貨・食料品商のラングフェルト&メイヤーズ(Langfeldt & Mayers,73番)。左手はホテル&レストラ...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
高島町遊郭の神風楼。「ネキタリン・ナンバー・ナイン」と呼ばれ、世界的に知られた。港崎郭にあった初代の伊勢楼から数えて三度の移転を経るが、写真は高島町2丁目にあった頃の三代目。明治4年(1871)から同...
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。左にみえる建物は松ヶ枝町(現伊...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。町を貫く通り(現元町通り)の突き当たりには、この増徳院が位置していた。写真は、本堂脇の薬師堂。その後薬師堂は、移転を経...
本町通りの1丁目から2丁目を見る。本町通りは開港以来の関内のメイン・ストリートで、このあたりには有力貿易商の店が軒を連ねていた。右手前の蔵造の建物は、2丁目角に建つ平沼商店(石炭屋)で、その奥の洋風建...
増徳院境内から元町通りを見る。山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。居留外国人の需要に応ずる商業地として発展した。左手の山上に見えるのは、元町百段上の浅間神...
海岸通りの4番・5番付近。開港直後の居留地には海岸通りは存在せず、文久年間に新設されたものと考えられる。明治18年(1885)に松並木が植えられ、プロムナードとしての景観が整えられた。写真は植樹以前の...
関内のメインストリートである本町通りから2本南を走る弁天通りは、原商店・茂木商店・小野商店などの大生糸売込商の店舗が軒を連ねる、横浜貿易の中心街であった。ガス灯の配置からすると、弁天通1丁目か。The...
2276と同様に仲見世入口(現雷門のある位置)から北に向いて写している。雷門から仁王門の間に並ぶ商店街を仲見世という。発端は近くの住民に浅草寺の清掃を頼んだ見返りに出店を許可したもの。明治18年(18...
八坂神社西楼門より四条通(祇園石段下)を西に望む。右方の狛犬は、明治15年(1882)に四条室町東入ル函谷鉾町の岩田忠兵衛と小泉新七が有志者を募り、家内安全と子孫長久を祈願し、八坂神社に奉献したもので...
目録番号3163と同じアングルだが、撮影年代は3163より下る。左手のジャーマンクラブは2階のベランダが改築されて室内に取り込まれており、右手の横浜郵便局は、明治22年(1889)に横浜郵便電信局とし...
52・72番付近を西から見る 右手はクック夫妻の文具・服飾品店(72番)。その向こうは雑貨・食料品商のラングフェルト&メイヤーズ(Langfeldt & Mayers,73番)。左手はホテル&レストラ...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
高島町遊郭の神風楼。「ネキタリン・ナンバー・ナイン」と呼ばれ、世界的に知られた。港崎郭にあった初代の伊勢楼から数えて三度の移転を経るが、写真は高島町2丁目にあった頃の三代目。明治4年(1871)から同...
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。左にみえる建物は松ヶ枝町(現伊...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。町を貫く通り(現元町通り)の突き当たりには、この増徳院が位置していた。写真は、本堂脇の薬師堂。その後薬師堂は、移転を経...