英語で「寺の入り口」と書き込まれているが、長崎諏訪神社の旧中門である。上野彦馬のアルバムのなかの一枚である。明治10年代の撮影で、門の脇にまだ伊万里焼きの灯篭が置かれていない。Entitled "Entrance of temple" in English, but this is the old middle gate of Suwa Shinto Shrine in Nagasaki. It is a photo from the album of Ueno Hikoma. It was taken between 1877 and 1887, as the Imari porcelain lantern is still not installed by the gate
ベアト撮影。「横浜近くの神道の寺の入り口、64年8月7日」と記されている。これは横浜の弁天社である。この神社は横浜村の鎮守として洲干弁財天社と呼ばれた。Taken by Beato. Written ...
明治中期(1887)頃の写真。諏訪神社の拝殿、祝詞殿、本殿が側面から撮影されている。諏訪神社は秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This photograph was taken around 18...
画面左が唐銅鳥居。その左奥が輪蔵(りんぞう)で、仏教の経典を納める経蔵である。唐銅鳥居の右上の建物は鼓楼。その右下が釣灯籠を納める燈台穂屋。画面右端は日光東照宮で最も有名な建物である陽明門。陽明門の奥...
現在は改修されて残っていない中門が写っている。青銅製の馬が後ろ向きに写っている。整理番号21-15と同じ写真。ただしこちらが複製とおもわれる。The middle gate, which does n...
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の左側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This h...
明治4(1871)年の神仏分離まで仁王像を安置していたことから仁王門と呼ばれた。神仏分離で仁王像が大猷院に移され、表門と呼ばれるようになった。明治30(1897)年に再び仁王像が戻るまで、この写真にあ...
明治後期から大正期(1890-1920)の手彩色の絵葉書。『長崎諏訪神社一ノ鳥居』と題されている。諏訪神社の入り口を撮影したもの。大鳥居は天保2年(1831)に青銅で造られ、額に「鎮西大社」と記されて...
徳川家光公の廟所大猷院の表門は一対の金剛力士像が安置されていて仁王門と呼ばれる。 東照宮の表門とよく似て朱塗りの八脚門であるが、 東照宮の様に神仏混合ではなく仏式である。 大猷院は朱と黒と金色を用いて...
場所は特定できないが、東京のあるお寺の山門。境内の内側から写したものだが、山門の下には数人の人物の姿が見える。The place is unknown, but the front gate of a...
伽藍配置上の中門にあたる門で「三解脱門(略して三門)」という。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を解脱するとも、極楽にある三門(空門・無相門・無願門)をさすとも言われる。元和9年(1623)再建と伝えられる。門...
琵琶湖の南西、長等山(ながらさん)中腹にある天台寺門宗の総本山「三井寺(みいでら)」。正式名称は「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」という。画面左が観音堂。手前中央が「手水舎」。その奥に「百体堂...
本地堂側より陽明門とその回廊を見る。 御本社をコの字に囲む回廊の外側壁面は朱塗りの柱に仕切られた胴羽目と腰羽目にはそれぞれ花鳥と水鳥が彫り込まれている。 その前には数多くの燈篭があり、 右端には櫓造袴...
三代将軍・徳川家光の墓所「大猷院(たいゆういん)」の入口にある門。大猷院とは家光の死後、後光明(ごこうみょう)天皇が授けた法号である。仁王門は高さ3.2メートルの2体の仁王像、「那羅延(ならえん)金剛...
浅草寺東側の門を後ろ側から見たところ。門の両側に2体の像があるが、かつては豊岩間戸命と櫛岩間戸命の像であったのを、後に神仏兼帯を改めて、増長天と持国天の像に変えた。The view of the ea...
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の右側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This h...
ベアト撮影。「横浜近くの神道の寺の入り口、64年8月7日」と記されている。これは横浜の弁天社である。この神社は横浜村の鎮守として洲干弁財天社と呼ばれた。Taken by Beato. Written ...
明治中期(1887)頃の写真。諏訪神社の拝殿、祝詞殿、本殿が側面から撮影されている。諏訪神社は秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This photograph was taken around 18...
画面左が唐銅鳥居。その左奥が輪蔵(りんぞう)で、仏教の経典を納める経蔵である。唐銅鳥居の右上の建物は鼓楼。その右下が釣灯籠を納める燈台穂屋。画面右端は日光東照宮で最も有名な建物である陽明門。陽明門の奥...
現在は改修されて残っていない中門が写っている。青銅製の馬が後ろ向きに写っている。整理番号21-15と同じ写真。ただしこちらが複製とおもわれる。The middle gate, which does n...
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の左側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This h...
明治4(1871)年の神仏分離まで仁王像を安置していたことから仁王門と呼ばれた。神仏分離で仁王像が大猷院に移され、表門と呼ばれるようになった。明治30(1897)年に再び仁王像が戻るまで、この写真にあ...
明治後期から大正期(1890-1920)の手彩色の絵葉書。『長崎諏訪神社一ノ鳥居』と題されている。諏訪神社の入り口を撮影したもの。大鳥居は天保2年(1831)に青銅で造られ、額に「鎮西大社」と記されて...
徳川家光公の廟所大猷院の表門は一対の金剛力士像が安置されていて仁王門と呼ばれる。 東照宮の表門とよく似て朱塗りの八脚門であるが、 東照宮の様に神仏混合ではなく仏式である。 大猷院は朱と黒と金色を用いて...
場所は特定できないが、東京のあるお寺の山門。境内の内側から写したものだが、山門の下には数人の人物の姿が見える。The place is unknown, but the front gate of a...
伽藍配置上の中門にあたる門で「三解脱門(略して三門)」という。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を解脱するとも、極楽にある三門(空門・無相門・無願門)をさすとも言われる。元和9年(1623)再建と伝えられる。門...
琵琶湖の南西、長等山(ながらさん)中腹にある天台寺門宗の総本山「三井寺(みいでら)」。正式名称は「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」という。画面左が観音堂。手前中央が「手水舎」。その奥に「百体堂...
本地堂側より陽明門とその回廊を見る。 御本社をコの字に囲む回廊の外側壁面は朱塗りの柱に仕切られた胴羽目と腰羽目にはそれぞれ花鳥と水鳥が彫り込まれている。 その前には数多くの燈篭があり、 右端には櫓造袴...
三代将軍・徳川家光の墓所「大猷院(たいゆういん)」の入口にある門。大猷院とは家光の死後、後光明(ごこうみょう)天皇が授けた法号である。仁王門は高さ3.2メートルの2体の仁王像、「那羅延(ならえん)金剛...
浅草寺東側の門を後ろ側から見たところ。門の両側に2体の像があるが、かつては豊岩間戸命と櫛岩間戸命の像であったのを、後に神仏兼帯を改めて、増長天と持国天の像に変えた。The view of the ea...
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の右側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This h...
ベアト撮影。「横浜近くの神道の寺の入り口、64年8月7日」と記されている。これは横浜の弁天社である。この神社は横浜村の鎮守として洲干弁財天社と呼ばれた。Taken by Beato. Written ...
明治中期(1887)頃の写真。諏訪神社の拝殿、祝詞殿、本殿が側面から撮影されている。諏訪神社は秋のくんちで有名な長崎の氏神である。This photograph was taken around 18...
画面左が唐銅鳥居。その左奥が輪蔵(りんぞう)で、仏教の経典を納める経蔵である。唐銅鳥居の右上の建物は鼓楼。その右下が釣灯籠を納める燈台穂屋。画面右端は日光東照宮で最も有名な建物である陽明門。陽明門の奥...