飽の浦から長崎港と対岸の南山手を望む写真である。対岸の海岸側は浪の平町、小曽根町、松ケ 枝町である。鍋冠山の下腹にはロシア領事館等の洋館が見える。左の団平船による艦船への石炭積み込み風景は珍しい映像である。A photo of Nagasaki Harbour and Minamiyamate seen from the opposite bank in Akunoura. The Naminohira, Kosone and Matsugae neighborhoods line the opposite bank. At the foot of Mt. Nabekanmuri, Western-style buildings such as the Russian Consulate can be seen. The loading of coal from lighters onto the warships is a rare scene in the old photos
雄島の磯より撮影した写真で、左側の島は亀島、右側の島は鯨島で双子島(ふたごじま)と呼ばれる別名もある。背後は自然植物園となっている福浦島である。船は真帆のダンベと呼ばれる種類である。島の形は今も変わっ...
厳島神社大鳥居西方から有浦方面を望む。有浦は江戸時代以降,厳島神社の門前町として栄え,旅館や商店などが軒を並べ,写真には白壁の浜蔵や町屋が写されている。画面左側の森は,弘治元年(1555)毛利元就と陶...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並み...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
1872年2月16日付けの"The Far East"に掲載された写真である。これについての説明文はない。対岸から南山手の居留地を写している。港内には大型の蒸気船が浮かんでいる。A picture f...
長命寺(ちょうめいじ)の門前を言問の岡と称し、明治2年(1869)年に言問団子を売る言問亭が開業。長命寺の桜餅と並ぶ向島名物となった。建物の右の暖簾には「言問団子」と書いてあるようだ。言問亭ではないか...
左手に湊川の流路、両岸の土手には松林が続き、湊川が天井川だったようすがわかる。湊川は洪水をおこすだけでなく、古来の港町「兵庫」と、開港以来急速な発展を遂げる「神戸」市街を隔てる障害でもあり、明治34年...
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。大正初期の写真である。右下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、中奥には明治44(1911)年に3階建てとなった県庁...
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。The photo can be dated d...
撮影者は不詳であるが、埋立地の様子(左手の第2期埋立地が造成されたばかりである)から撮影時期は文久2(1862)年であり、このアングルでは長崎大学が所蔵する最古の写真である。手前のベルビュー・ホテルが...
明治23(1890)年9月、梅香崎に完成した旧長崎税関の新庁舎。明治32(1899)年に管轄区域に周防・長門が加わった。大正12(1923)年に日華連絡線として長崎丸と上海丸が就航し、大陸との交通が増...
文久元年(1861)に落成した長崎製鉄所を譲り受け、明治17年(1884)に三菱会社長崎造船所飽の浦機械工場になった。工場の建物、50トン起重機等の工場施設を見ることができる。対岸は西坂、大黒町付近。...
元治元年(1864)頃、飽の浦を訪れたベアトは、この入江にそそぎこむ大日川の石橋と人物を撮影。幕末の長崎郊外を撮影したものとして珍しい写真である。川の男性は魚を釣っているのだろうか。When Beat...
風頭山から飽の浦と長崎港を眺望する。左端の樹木の繁る丘は東山手、中央より右寄りに出島。中島川の河口には、明治2年(1869)に架けられた新大橋が見える。漆喰で塗られた瓦屋根が目立つ明治10年代の長崎の...
雄島の磯より撮影した写真で、左側の島は亀島、右側の島は鯨島で双子島(ふたごじま)と呼ばれる別名もある。背後は自然植物園となっている福浦島である。船は真帆のダンベと呼ばれる種類である。島の形は今も変わっ...
厳島神社大鳥居西方から有浦方面を望む。有浦は江戸時代以降,厳島神社の門前町として栄え,旅館や商店などが軒を並べ,写真には白壁の浜蔵や町屋が写されている。画面左側の森は,弘治元年(1555)毛利元就と陶...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並み...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
1872年2月16日付けの"The Far East"に掲載された写真である。これについての説明文はない。対岸から南山手の居留地を写している。港内には大型の蒸気船が浮かんでいる。A picture f...
長命寺(ちょうめいじ)の門前を言問の岡と称し、明治2年(1869)年に言問団子を売る言問亭が開業。長命寺の桜餅と並ぶ向島名物となった。建物の右の暖簾には「言問団子」と書いてあるようだ。言問亭ではないか...
左手に湊川の流路、両岸の土手には松林が続き、湊川が天井川だったようすがわかる。湊川は洪水をおこすだけでなく、古来の港町「兵庫」と、開港以来急速な発展を遂げる「神戸」市街を隔てる障害でもあり、明治34年...
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。大正初期の写真である。右下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、中奥には明治44(1911)年に3階建てとなった県庁...
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。The photo can be dated d...
撮影者は不詳であるが、埋立地の様子(左手の第2期埋立地が造成されたばかりである)から撮影時期は文久2(1862)年であり、このアングルでは長崎大学が所蔵する最古の写真である。手前のベルビュー・ホテルが...
明治23(1890)年9月、梅香崎に完成した旧長崎税関の新庁舎。明治32(1899)年に管轄区域に周防・長門が加わった。大正12(1923)年に日華連絡線として長崎丸と上海丸が就航し、大陸との交通が増...
文久元年(1861)に落成した長崎製鉄所を譲り受け、明治17年(1884)に三菱会社長崎造船所飽の浦機械工場になった。工場の建物、50トン起重機等の工場施設を見ることができる。対岸は西坂、大黒町付近。...
元治元年(1864)頃、飽の浦を訪れたベアトは、この入江にそそぎこむ大日川の石橋と人物を撮影。幕末の長崎郊外を撮影したものとして珍しい写真である。川の男性は魚を釣っているのだろうか。When Beat...
風頭山から飽の浦と長崎港を眺望する。左端の樹木の繁る丘は東山手、中央より右寄りに出島。中島川の河口には、明治2年(1869)に架けられた新大橋が見える。漆喰で塗られた瓦屋根が目立つ明治10年代の長崎の...
雄島の磯より撮影した写真で、左側の島は亀島、右側の島は鯨島で双子島(ふたごじま)と呼ばれる別名もある。背後は自然植物園となっている福浦島である。船は真帆のダンベと呼ばれる種類である。島の形は今も変わっ...
厳島神社大鳥居西方から有浦方面を望む。有浦は江戸時代以降,厳島神社の門前町として栄え,旅館や商店などが軒を並べ,写真には白壁の浜蔵や町屋が写されている。画面左側の森は,弘治元年(1555)毛利元就と陶...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...