明治23(1890)年9月、梅香崎に完成した旧長崎税関の新庁舎。明治32(1899)年に管轄区域に周防・長門が加わった。大正12(1923)年に日華連絡線として長崎丸と上海丸が就航し、大陸との交通が増大し、昭和3(1928)年に新庁舎が完成するまで写真の税関庁舎が使われた。The new Nagasaki Custom House completed at Umegasaki in September 1890. In 1899, the districts of Suo and Nagato (present-day Yamaguchi Prefecture) came under its jurisdiction. The Nagasaki-maru and Shanghai-maru began service between Japan and China in 1923. This building was used until the Custom House was moved to a new building in 1928 as a result of the increase in traffic between Japan and the continent
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。民家を背景に三人の人物が見える屋形船を写したこの写真は、整理番号66-14と同一の写真であるが、当写真では左側が切れている。Beato took ...
平成6年11月17日(木)~11月21日(月) 長崎大学附属図書館3階開催, 長崎大学附属図書館新収古写真展パンフレット古写真タイトル・解説に関しては、展覧会当時と現在は異なっている場合があります。写...
明治23(1890)年9月、梅香崎に完成した旧長崎税関の新庁舎。明治32(1899)年に管轄区域に周防・長門が加わった。大正12(1923)年に日華連絡線として長崎丸と上海丸が就航し、大陸との交通が増...
明治後期から大正初期の長崎郵便局の絵葉書写真。明治8(1875)年に本大工町の長崎郵便役所からここ梅香崎に移転し長崎郵便局となった。居留地に隣接する1等地に置かれ、明治10(1877)年に万国郵便連合...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
ベアト撮影。「長崎の奉行」と記されている。この奉行は文久3(1863)年5月、目付・小納戸頭取から長崎奉行に着任し、慶応2(1866)年1月に離任した服部長門守(常純、左衛門左)である。Taken b...
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並み...
150トン電動ハンマーヘッド起重機は、明治42年(1909)12月、英国マザーウェル・ブリッジ社から輸入し、三菱造船所(現三菱重工業(株)長崎造船所)飽ノ浦の艤装岸壁に設置されたものである。現在国指定...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
明治14年(1881) 4月、日見新道会社が設立され、明治15年(1882) 7月30日、新道開削工事が完成した。峠の頂上で幅18mあまり、深さ20mあまりを開削し、底に幅4mの切通しが造られた。大正...
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋...
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。大正初期の写真である。右下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、中奥には明治44(1911)年に3階建てとなった県庁...
風頭山から長崎市中と港を展望したもの。左隅の新地蔵の付近は埋め立てが進み、新しい建物が建築中であるが、内側はまだ石垣がそのまま残っている。出島と出島橋、明治2年(1869)に架けられた新大橋の架かる築...
ベアト撮影。「長崎のオランダ人居留地出島と、湾の対岸のロシア人居留地、65年7月」と記されている。慶応元年、出島の原型をとどめる貴重な写真。手前は新地蔵、対岸は稲佐のロシア人居留地である。Taken ...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。民家を背景に三人の人物が見える屋形船を写したこの写真は、整理番号66-14と同一の写真であるが、当写真では左側が切れている。Beato took ...
平成6年11月17日(木)~11月21日(月) 長崎大学附属図書館3階開催, 長崎大学附属図書館新収古写真展パンフレット古写真タイトル・解説に関しては、展覧会当時と現在は異なっている場合があります。写...
明治23(1890)年9月、梅香崎に完成した旧長崎税関の新庁舎。明治32(1899)年に管轄区域に周防・長門が加わった。大正12(1923)年に日華連絡線として長崎丸と上海丸が就航し、大陸との交通が増...
明治後期から大正初期の長崎郵便局の絵葉書写真。明治8(1875)年に本大工町の長崎郵便役所からここ梅香崎に移転し長崎郵便局となった。居留地に隣接する1等地に置かれ、明治10(1877)年に万国郵便連合...
明治18年(1885)新築移転した横浜税関新庁舎。旧庁舎は県庁舎として引き続き使用された。左右対称の外観をもち中央に塔を建てる典型的な明治の官庁建築。日本大通りのアイストップとして、関東大震災で倒壊す...
ベアト撮影。「長崎の奉行」と記されている。この奉行は文久3(1863)年5月、目付・小納戸頭取から長崎奉行に着任し、慶応2(1866)年1月に離任した服部長門守(常純、左衛門左)である。Taken b...
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並み...
150トン電動ハンマーヘッド起重機は、明治42年(1909)12月、英国マザーウェル・ブリッジ社から輸入し、三菱造船所(現三菱重工業(株)長崎造船所)飽ノ浦の艤装岸壁に設置されたものである。現在国指定...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
明治14年(1881) 4月、日見新道会社が設立され、明治15年(1882) 7月30日、新道開削工事が完成した。峠の頂上で幅18mあまり、深さ20mあまりを開削し、底に幅4mの切通しが造られた。大正...
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋...
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。大正初期の写真である。右下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、中奥には明治44(1911)年に3階建てとなった県庁...
風頭山から長崎市中と港を展望したもの。左隅の新地蔵の付近は埋め立てが進み、新しい建物が建築中であるが、内側はまだ石垣がそのまま残っている。出島と出島橋、明治2年(1869)に架けられた新大橋の架かる築...
ベアト撮影。「長崎のオランダ人居留地出島と、湾の対岸のロシア人居留地、65年7月」と記されている。慶応元年、出島の原型をとどめる貴重な写真。手前は新地蔵、対岸は稲佐のロシア人居留地である。Taken ...
慶応2年(1866)の大火後に拡張されたイギリス波止場の第一突堤。通称象の鼻。明治27年(1894)この先に鉄製桟橋が完成するまでは、大型船が着岸することはできず、突堤左手の水面が艀(はしけ)の船溜り...
ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。民家を背景に三人の人物が見える屋形船を写したこの写真は、整理番号66-14と同一の写真であるが、当写真では左側が切れている。Beato took ...
平成6年11月17日(木)~11月21日(月) 長崎大学附属図書館3階開催, 長崎大学附属図書館新収古写真展パンフレット古写真タイトル・解説に関しては、展覧会当時と現在は異なっている場合があります。写...