撮影者は不詳であるが、埋立地の様子(左手の第2期埋立地が造成されたばかりである)から撮影時期は文久2(1862)年であり、このアングルでは長崎大学が所蔵する最古の写真である。手前のベルビュー・ホテルがまだコの字型であり、東山手にはほとんど建物が見られない。The photographer is unknown, but judging from the land reclamation (just after the completion of the second reclamation on the left) this photograph was probably taken in 1862. This means that it is the oldest photograph in the Nagasaki University collection. The Belle Vue Hotel in the foreground is still in bracket shape, and there are hardly any buildings in Higashiyamate
館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の湊公園である。出島の海側には慶応3(1867)年にできた馬まわしの突き出しが築かれている。View o...
梅香崎橋から海岸通りを経て新地、出島を遠望したもの。出島橋と新大橋が見える。この梅香崎橋は明治2年(1869)頃架けられた木造橋か。明治10年代の写真。This is a view of Shinch...
中央に出島、手前に新地蔵、梅ケ崎の居留地が写っている。出島の海側の線が鮮明に見える。新地と居留地を結ぶ木橋(梅ケ崎橋)が写っている。In the centre is Dejima, and to th...
南山手から大浦居留地、出島を望む。右手の建物は、現在東急ホテルが建っている場所にあったベルビューホテル。整理番号28-25、36-28より左上の地点から撮影している。A view of Dejima ...
南山手のグラバー園下から大浦外国人居留地ごしに出島を遠望。出島の倉庫が見える。右手前はベルビュウーホテルで現在の東急ホテルの位置にあたる。東山手の丘には明治15年に建設されるラッセル館がまだ建っていな...
飽の浦から長崎港と対岸の南山手を望む写真である。対岸の海岸側は浪の平町、小曽根町、松ケ 枝町である。鍋冠山の下腹にはロシア領事館等の洋館が見える。左の団平船による艦船への石炭積み込み風景は珍しい映像で...
長崎大浦居留地のベルビュー・ホテル(現全日空ホテルグラバーヒル)入り口である。このホテルは文久3年(1863)頃に開業された日本最古のホテルである。撮影時期は明治中期。居留地内にあったため外国人が主た...
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並み...
左手に湊川の流路、両岸の土手には松林が続き、湊川が天井川だったようすがわかる。湊川は洪水をおこすだけでなく、古来の港町「兵庫」と、開港以来急速な発展を遂げる「神戸」市街を隔てる障害でもあり、明治34年...
雄島の磯より撮影した写真で、左側の島は亀島、右側の島は鯨島で双子島(ふたごじま)と呼ばれる別名もある。背後は自然植物園となっている福浦島である。船は真帆のダンベと呼ばれる種類である。島の形は今も変わっ...
立山から長崎市街地北部と大黒町から出島に至る沿岸部を撮影。明治10年(1877)代頃。右端は旧佐賀藩の砲台で、大黒町から浦五島町、大波止を経て出島に至る。明治20年(1887)頃この沿岸部は埋め立てら...
向山(むこうやま)から見た宮ノ下と堂ヶ島。宮ノ下には富士屋ホテルと奈良屋ホテルが見え、明治16年(1883)の宮ノ下大火以後、富士屋ホテル本館竣工後の明治24年(1891)以降の撮影と分かる。堂ヶ島へ...
ベアト撮影。「長崎のオランダ人居留地出島と、湾の対岸のロシア人居留地、65年7月」と記されている。慶応元年、出島の原型をとどめる貴重な写真。手前は新地蔵、対岸は稲佐のロシア人居留地である。Taken ...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
内田九一撮影。明治5年天皇の西国巡行の折撮影された薩摩の台場と桜島の遠景。滑川河口付近より船形台場(新波戸砲台)を望む。手前は天皇に拝謁するための琉球の豊見城親方、池城親方、安室親方の乗船か。This...
館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の湊公園である。出島の海側には慶応3(1867)年にできた馬まわしの突き出しが築かれている。View o...
梅香崎橋から海岸通りを経て新地、出島を遠望したもの。出島橋と新大橋が見える。この梅香崎橋は明治2年(1869)頃架けられた木造橋か。明治10年代の写真。This is a view of Shinch...
中央に出島、手前に新地蔵、梅ケ崎の居留地が写っている。出島の海側の線が鮮明に見える。新地と居留地を結ぶ木橋(梅ケ崎橋)が写っている。In the centre is Dejima, and to th...
南山手から大浦居留地、出島を望む。右手の建物は、現在東急ホテルが建っている場所にあったベルビューホテル。整理番号28-25、36-28より左上の地点から撮影している。A view of Dejima ...
南山手のグラバー園下から大浦外国人居留地ごしに出島を遠望。出島の倉庫が見える。右手前はベルビュウーホテルで現在の東急ホテルの位置にあたる。東山手の丘には明治15年に建設されるラッセル館がまだ建っていな...
飽の浦から長崎港と対岸の南山手を望む写真である。対岸の海岸側は浪の平町、小曽根町、松ケ 枝町である。鍋冠山の下腹にはロシア領事館等の洋館が見える。左の団平船による艦船への石炭積み込み風景は珍しい映像で...
長崎大浦居留地のベルビュー・ホテル(現全日空ホテルグラバーヒル)入り口である。このホテルは文久3年(1863)頃に開業された日本最古のホテルである。撮影時期は明治中期。居留地内にあったため外国人が主た...
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並み...
左手に湊川の流路、両岸の土手には松林が続き、湊川が天井川だったようすがわかる。湊川は洪水をおこすだけでなく、古来の港町「兵庫」と、開港以来急速な発展を遂げる「神戸」市街を隔てる障害でもあり、明治34年...
雄島の磯より撮影した写真で、左側の島は亀島、右側の島は鯨島で双子島(ふたごじま)と呼ばれる別名もある。背後は自然植物園となっている福浦島である。船は真帆のダンベと呼ばれる種類である。島の形は今も変わっ...
立山から長崎市街地北部と大黒町から出島に至る沿岸部を撮影。明治10年(1877)代頃。右端は旧佐賀藩の砲台で、大黒町から浦五島町、大波止を経て出島に至る。明治20年(1887)頃この沿岸部は埋め立てら...
向山(むこうやま)から見た宮ノ下と堂ヶ島。宮ノ下には富士屋ホテルと奈良屋ホテルが見え、明治16年(1883)の宮ノ下大火以後、富士屋ホテル本館竣工後の明治24年(1891)以降の撮影と分かる。堂ヶ島へ...
ベアト撮影。「長崎のオランダ人居留地出島と、湾の対岸のロシア人居留地、65年7月」と記されている。慶応元年、出島の原型をとどめる貴重な写真。手前は新地蔵、対岸は稲佐のロシア人居留地である。Taken ...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
内田九一撮影。明治5年天皇の西国巡行の折撮影された薩摩の台場と桜島の遠景。滑川河口付近より船形台場(新波戸砲台)を望む。手前は天皇に拝謁するための琉球の豊見城親方、池城親方、安室親方の乗船か。This...
館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の湊公園である。出島の海側には慶応3(1867)年にできた馬まわしの突き出しが築かれている。View o...
梅香崎橋から海岸通りを経て新地、出島を遠望したもの。出島橋と新大橋が見える。この梅香崎橋は明治2年(1869)頃架けられた木造橋か。明治10年代の写真。This is a view of Shinch...
中央に出島、手前に新地蔵、梅ケ崎の居留地が写っている。出島の海側の線が鮮明に見える。新地と居留地を結ぶ木橋(梅ケ崎橋)が写っている。In the centre is Dejima, and to th...