本稿は摂津・河内・大和など近畿中央部において弥生甕が成立する過程を明らかにしたものである。弥生甕とは弥生Ⅰ期の西日本各地に新たに出現する甕を指し,これまで主に板付式,遠賀川式,遠賀川系の甕とよばれてきたものである。私は先に,九州北部から中部瀬戸内にかけての弥生甕を検討して,弥生甕には系統を異にする三つの流れがあることを明らかにした。一つは早期の突帯文甕を母胎とする突帯文系甕が弥生甕となるもので,筑後の亀ノ甲タイプや豊後の下城式などが該当する。二つ目は,一つ目と突帯文甕を母胎とする点は同じだが,突帯文系ではなく外反口縁甕を目指す動きである。西部瀬戸内の口縁下端凸状甕が典型的な例である。三つ目は中期無文土器の系譜を引く板付祖型甕を母胎に,板付Ⅰ式甕,遠賀川式甕へと向かう流れである。1980年代の半ばまで弥生Ⅰ期の甕といえば,三つ目の甕を意味していた。はじめの二つは分布域が狭く,地域ごとに特徴的なあり方を示すことから「地域甕」,三つ目は広範囲に分布し,地域差も少ないことから「標準甕」と命名した。この視点にたって近畿中心部の弥生甕について検証したのが本稿である。分析の結果,次のことがわかった。一つは遺跡ごとに成立する弥生甕の種類は異なること。二つ目はこれらの遺跡では,まず突帯文系と外反口縁甕をもつ地域甕が成立した後,限られた遺跡のなかで標準甕が成立するために,標準甕は時期的にも地域的にも分布が限られることを確認したことである。以上のことから,近畿の遠賀川系甕はまず屈曲型一条甕が外反口縁甕へと変容したあと,中段階になって遠賀川系甕として定型化すると理解した。地域甕から標準甕が出てくるのである。当初から標準甕が成立し,その影響で外反口縁甕が成立する中部瀬戸内以西の地域との大きな違いである...