日本上古の遺跡より発見される中国の古鏡は、前漢時代では主として北九州に限られているが、西暦紀元前後の鏡からはその数量が多くなると共に、同地域のみならず、中国・四国の瀬戸内側より畿内地方に広く分布して後漢三国代のものになると、畿内での出土品が夥しい数量に上るのである。この類は更に東の方中部日本より関東地方からも見出される。それ等と共に畿内地方で優れた仿製鏡が鋳造されて、これ等の殆んどすべては特色ある古式古墳に副葬されているのである。 従来見出された千面を超える夥しい各時代の鏡に就いて見ると、漢中期より後漢を通じての出土鏡は、総じて舶載以後愛重伝世したことをそれ自体の著しい図紋の手なれで認められるものである。またこの種の鏡式の畿内出土の仿製品にも優れたもののあるのが認められる。次に後漢末から三国代の畿内地方に夥しい鏡-例えば画象鏡、三角緑神獣鏡などには同笵所鋳の鏡が少くなく、その類の一括して同時に彼土から同地に齎されたのを示唆する。これは中国の正史に伝える記事と表裏するとこである。而して是等の鏡が大和朝廷の特色あるまた既に一定の型をとつた高塚に副葬されていて、その副葬のエ合たるや一墳に数多い点で、他の国土での単な、のる姿見としての副葬の様相とは違うている。 そうすると鏡から推されるこのような古墳の営まれた、三四世紀の時代には、畿内に於いて大和朝の形成が既に出来上つて、発展えの段階に逹していたことになる。同時にそれに至る過程は当初鏡が大陸から伝えられた北九州より、漢中期以降の鏡の多くが畿内に齎されて伝存する間にあつたと見るべきで、また各鏡式の通じての分布の示すところこれに重要な示唆を与えるものがあるのである。Chinese bronze mirrors from the Early...