個人情報保護のため削除部分あり村落を農村・山村・漁村に分類する視点は近代の所産であるが、これに似た村落類型観が近世にも存在していた。それは「里方」・「山方」・「貴方(浜方) 」・「野方」その他の村落類型から成るもので、主として一八世紀以降の幕府の地方役人による地方書、およびその影響下にある地方書に見ることができる。その背景には、「里方」以外の諸類型に対して、農業以外の収入を貢租額査定に積極的に考慮しようとする判断が働いていた。しかも地方書における「山方」は、一方では山稼が奨励され、他方では「耕作第一」でないことが否定的に言及されており、百姓の生業を農業と稼に区分しようとする近世の価値観の狭間に立たされていた。そこには、石高制を前提とした農業中心主義的な立場から、支配下の諸村を俯瞰する地方役人の視線を窺うことができる。Japanese politicians, social scientists, and schoolteachers have used a triadic model of villages to classify settlements by their location and economy: rural villages in plain land (no-son), mountain villages (san-son), and fishing villages (gyo-son). Their custom to distinguish these three types of villages, which has had a strogg influence on the Japanese way of seeing rural settle...
十六世紀中葉からのヨーロツパ諸国との交流を契機として、天文学的理論・世界知識・世界地図などの分野を開拓されたわが国の地理学は、いわゆる蘭学の興隆によつて、地動説などのより新しい展開をみせはじめた。この...
本稿は紀州藩の村についてその集落構成を主として日高川流域を例にとり考察したものである。一村が一集落から成る場合は別として、幾つかの集落から構成せられている場合に、その構成集落を小名と呼んだ。その場合に...
個人情報保護のため削除部分あり十八世紀後期における小物成山の利用を巡る訴訟過程で、摂津国豊嶋郡の村々が立会絵図を測量図として作製することとなった。大坂町奉行所での指示を受け、村々は隣村の職業絵師を雇っ...
個人情報保護のため削除部分あり廃都後の平城京域は貞観六年の「都城道路変為田畝」という記事により、大部分が早期に水田化したとされ、興福寺膝下に成立した中世都市奈良のみが存続したと概説される。しかしながら...
個人情報保護のため削除部分あり律令時代の郡家の立地については、従来、交通の便に優れた場所に置かれる傾向が指摘されてきた。しかし、これらの多くは郡家と交通路との近接性を漠然と説くものであり、郡家がいかな...
大化改新、律令制度を理解する一方途として、改新前地方支配組織の発展をとりあげる。中央機構で組織としての朝廷と伝統的首長としての皇室とが分立する結果、前者が後者を構成的に疎外する過程は、他方地方に対する...
日本古代の村落形態については、条里式村落と自然村落との二つの概念がある。両者がともに、村落形態として数十戸程度のかなり大きな集村を想定しているのは、三〇~五〇戸一里という律令制下の村落制度が、律令以前...
個人情報保護のため削除部分あり永原慶二氏の中世「小村=散居型村落」論に関する歴史地理学的再検討を行なった。薩摩国入来院の場合、中世前期の在家は広い薗畠と結合して概ね台地上に集落を営み、畠作農業を基盤と...
個人情報保護のため削除部分あり中世の地方政治中心である守護城下は、しばしば戦国城下町と比較され、その空間講造の未熟さが指摘されてきた。しかし資料的制限から、城下空間全体を対象として、その変遷過程を実証...
寛永期 (一六二四-四四) の畿内幕領における農民支配は、二つの面からおこなわれた。その一は、夫役の徴収であつて、家と労働力を有する農民の殆ど全部が、幕府のもとに役家として編成された。その二は、貢租収...
個人情報保護のため削除部分あり律令期前後の村落に言及する時、村落の起源のみを考察して事足れりとし、村落形態については現景観をそのまま溯及させて想定するといったように、景観が固定的に把握されている場合が...
近世に生きた村老たちの治水論に迫ることで、洪水・水害と村社会との関係のありようを問う。これが小稿の課題である。村老として注目したのは、加賀藩の篤農家・土屋又三郎と享保改革の地方巧者・田中丘隅の二人であ...
個別経営の分析による地主制の研究はすでに多く出されているが、本稿ではとくに農業経営の分析ばかりでなく、現実の地主経済にとつて多かれ少かれ比重をもつていた農業経営以外の面についても分析し、これら各方面が...
近世に生きた村老たちの治水論に迫ることで、洪水・水害と村社会との関係のありようを問う。これが小稿の課題である。村老として注目したのは、加賀藩の篤農家・土屋又三郎と享保改革の地方巧者・田中丘隅の二人であ...
個人情報保護のため削除部分あり本稿は畿内南縁の中世庄園の開発状況と集落を扱かったものである。事例に取りあげたのは和泉国日根野庄、紀伊国井上本庄、同桛田庄である。絵図に描かれた農耕地の分布する地域の水利...
十六世紀中葉からのヨーロツパ諸国との交流を契機として、天文学的理論・世界知識・世界地図などの分野を開拓されたわが国の地理学は、いわゆる蘭学の興隆によつて、地動説などのより新しい展開をみせはじめた。この...
本稿は紀州藩の村についてその集落構成を主として日高川流域を例にとり考察したものである。一村が一集落から成る場合は別として、幾つかの集落から構成せられている場合に、その構成集落を小名と呼んだ。その場合に...
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近世に生きた村老たちの治水論に迫ることで、洪水・水害と村社会との関係のありようを問う。これが小稿の課題である。村老として注目したのは、加賀藩の篤農家・土屋又三郎と享保改革の地方巧者・田中丘隅の二人であ...
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本稿は紀州藩の村についてその集落構成を主として日高川流域を例にとり考察したものである。一村が一集落から成る場合は別として、幾つかの集落から構成せられている場合に、その構成集落を小名と呼んだ。その場合に...
個人情報保護のため削除部分あり十八世紀後期における小物成山の利用を巡る訴訟過程で、摂津国豊嶋郡の村々が立会絵図を測量図として作製することとなった。大坂町奉行所での指示を受け、村々は隣村の職業絵師を雇っ...