歴史研究室では興福寺の文書調査を継続的に実施しており、2001年度には、従来奈文研の調査の手が及んでいなかった文書函についても、函番号・文書番号をつけつつ調査するに至っている。そのなかで第86函とした文書函は140点もの絵図を納めた絵図函であり、その絵図の過半は、興福寺の子院を描いた絵図で占められている。その一部は1999年興福寺国宝館特別陳列「興福寺の絵図」に出展されたこともあるが、一般にはほとんど知られていないと思われるので、ここに紹介したい
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
知恩院経蔵を御影(ごえい)堂南側より石燈籠をはさみ東に望む。経蔵は元和5年(1615)の創建で、本瓦葺で二層の宝形造である。裳階部分には壁・扉・窓がなく吹放しで、柱が立ち並んで周りを取り巻く「周柱式」...
京都市東山区本町にある東福寺は、京都五山の一つで、京都でも屈指の大寺である。臨済宗東福寺本山。通天橋は仏殿から開山堂までの廊橋で、橋の中央の舞台の屋根が突き出しているのが見える。ここからの紅葉の眺めは...
興福寺西金堂に旧安置されていたと考えられる天燈鬼・竜燈鬼像について、これまで明らかでなかった図像的背景及び慶派彫刻としての位置付け、釈迦集会群像を形成する西金堂に安置された経緯などの問題について検討し...
本調査は、平成10年度の中門、11年度の東面回廊等に続く、興福寺第I期境内整備事業の第3・4年次にあたる。調査区は、中金堂基壇を中心とする東西51m、南北36m、調査面積は1836㎡で、調査区内には中...
興福寺文書の第75函は絵図資料を収めた箱であり、興味深い内容のものを含む。ただしその中には、絵図作成の事情が明記されていないものも存在する。第75函18号の「興福寺伽藍図」もそのような絵図の一つである...
麹屋町の通りから寺町方向を見たもの。写真中央の重層の楼閣は文政8年(1825)に、荒廃していた開山堂を併合した興福寺の観音堂。同じアングルでベアトが元治元年(1864)に撮ったものがあるが、これは人力...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
発掘調査で出土する遺物量が正確にその遺跡の情報を示しているかを検討し、同志社大学の調査で出土した実データを使って新しい手法で再考する。手法は口縁部計測法を用いた。そこから導き出される結果と他の遺跡との...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
publisher奈良興福寺は、藤原氏の氏寺であったが、その全盛期(安和の変~後三条天皇即位以前)に於いては、必ずしも同氏の信仰(或いは処遇、貴種の入寺等)の第一位にあったとは考えがたい。同氏は、この...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の植え込みは細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
東本願寺大師堂を南東側から北西に望む。大きな噴水の周囲では大勢の子供達が集まっている。大師堂は大谷光勝法主の発願により15年の歳月を要して明治28年(1895)に竣工した。重層で入母屋造、本瓦葺、正面...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
知恩院経蔵を御影(ごえい)堂南側より石燈籠をはさみ東に望む。経蔵は元和5年(1615)の創建で、本瓦葺で二層の宝形造である。裳階部分には壁・扉・窓がなく吹放しで、柱が立ち並んで周りを取り巻く「周柱式」...
京都市東山区本町にある東福寺は、京都五山の一つで、京都でも屈指の大寺である。臨済宗東福寺本山。通天橋は仏殿から開山堂までの廊橋で、橋の中央の舞台の屋根が突き出しているのが見える。ここからの紅葉の眺めは...
興福寺西金堂に旧安置されていたと考えられる天燈鬼・竜燈鬼像について、これまで明らかでなかった図像的背景及び慶派彫刻としての位置付け、釈迦集会群像を形成する西金堂に安置された経緯などの問題について検討し...
本調査は、平成10年度の中門、11年度の東面回廊等に続く、興福寺第I期境内整備事業の第3・4年次にあたる。調査区は、中金堂基壇を中心とする東西51m、南北36m、調査面積は1836㎡で、調査区内には中...
興福寺文書の第75函は絵図資料を収めた箱であり、興味深い内容のものを含む。ただしその中には、絵図作成の事情が明記されていないものも存在する。第75函18号の「興福寺伽藍図」もそのような絵図の一つである...
麹屋町の通りから寺町方向を見たもの。写真中央の重層の楼閣は文政8年(1825)に、荒廃していた開山堂を併合した興福寺の観音堂。同じアングルでベアトが元治元年(1864)に撮ったものがあるが、これは人力...
慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)...
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publisher奈良興福寺は、藤原氏の氏寺であったが、その全盛期(安和の変~後三条天皇即位以前)に於いては、必ずしも同氏の信仰(或いは処遇、貴種の入寺等)の第一位にあったとは考えがたい。同氏は、この...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の植え込みは細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回...
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
東本願寺大師堂を南東側から北西に望む。大きな噴水の周囲では大勢の子供達が集まっている。大師堂は大谷光勝法主の発願により15年の歳月を要して明治28年(1895)に竣工した。重層で入母屋造、本瓦葺、正面...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
知恩院経蔵を御影(ごえい)堂南側より石燈籠をはさみ東に望む。経蔵は元和5年(1615)の創建で、本瓦葺で二層の宝形造である。裳階部分には壁・扉・窓がなく吹放しで、柱が立ち並んで周りを取り巻く「周柱式」...
京都市東山区本町にある東福寺は、京都五山の一つで、京都でも屈指の大寺である。臨済宗東福寺本山。通天橋は仏殿から開山堂までの廊橋で、橋の中央の舞台の屋根が突き出しているのが見える。ここからの紅葉の眺めは...