嵐山を保津川北岸より南に望む。川面には遊覧舟の小舟や屋形船が数艘浮かんでいる。川の長れは穏やかで、水量は比較的少ない。対岸には遊歩道が設けられ、植生されてまもない小さな並木が見える。右端には鳥居が姿をのぞかせる。Arashiyama is viewed from the northern bank of Hozu River, facing south. A few small sightseeing boats and "yakata" boats are visible. The water flows gently and the water level is relatively low. A promenade lined with small trees is visible on the other side of the river. A torii gate can also be seen on the right
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
保津川下りの船内から下流を撮影する。南岸には大きな岩がむき出しとなっている。保津峡は嵐峡とも呼ばれ、亀岡保津橋附近から嵐山渡月橋附近までの保津川約13kmの峡谷である。急流奇岩が連続する景勝地で、愛宕...
日本三景の一、松島。右手には三角に帆を張った和船が浮かび、左手には手前に岸の一部、その向こうに松を戴いた岩塊、さら先には島影がのぞいている。波静かな水面は鏡のようで、上下を逆さにしても同じ光景が得られ...
嵐山を保津川南岸より満開の桜の枝越しに東に遠望する。幾重にもつなげられ急流の保津川渓谷を下ってきた筏が、流れが穏やかとなる嵐山にて保津川南岸に集結し、貯木場となっている。左背後には小さく渡月橋が見える...
保津川下りの小舟を上流北岸から撮影する。山腹の森林の多くが刈り取られ、地肌があらわになっている。保津川下りとは亀岡保津町から嵐山渡月橋上流までの行程約16kmの船による川下りである。近世には丹波亀岡か...
嵐山渡月橋を桂川北岸東部から西に遠望する。手前北岸には3艘の丸子船が横付けされて停泊し、松並木が姿を見せる。橋南詰には小規模な集落が点在している。写真の渡月橋は明治25年(1892)の水害で流失した。...
嵐山での舟遊びに興じる人々を撮影する。女性4名が乗船した手前の屋形船では、船頭が櫂を使って船を下流に向かって漕ぎ出している。9名の男性が乗船している奥の屋形船は木陰で停船し、嵐山の景観を鑑賞している様...
嵐山温泉北側の保津川北岸から上流を望む。萱葺の方形屋根の茶店には、壁がなく角材の柱がむき出しとなっている。中には長机と長椅子が置かれ、着物姿の女性が座り休憩している。辺りには植えられたばかりの立木が見...
八坂神社境内南東側辺りから東山を東に望む。左端には也阿弥ホテルの別館、洋風の本館の妻壁が姿をのぞかせる。中央に高くそびえる三層の楼閣は、明治6年(1873)に京都の近代化の推進者であった明石博高(ひろ...
金剛寺(紅葉寺)あたりの音無川(石神井川)であろう。川が曲がった所で、橋が架かっていて風情があったそうである。橋の傍らの窟(いわや)の中には弁天が祀ってあった。丘の上には茶店もあったという。音無川はこ...
遊郭入口にあった大門(おおもん)を背にして、メインストリートの仲之町(なかのちょう)を見る。春になると桜を主に安行(あんぎょう)から運んで植えたという。通りの左右に引手茶屋が並ぶ。右側奥に写る塔は、明...
嵐山渡月橋北岸西側の三軒茶屋「旗亭」を保津川南岸から北に望む。三軒茶屋は中央部が3層、東部と西部が2層となり、東部と中央部は棟続きとなっている。三軒茶屋の東西両側の保津川岸には、長い屋根付きの床が設け...
明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で、竹の久...
本稿は本誌第78号「近世の嵐山と日切茶店」に引き続き、天龍寺の寺務日誌『年中記録』を素材として、近世という時間のなかで名所嵐山をめぐって繰り広げられたさまざまな人びとの営みの跡をみつめようとするもので...
相模川のほとりであろう。厚木は東海道の脇往還にして大山参詣路でもある矢倉沢往還に沿う宿場として、また相模川の水運を利用した物資集散地として賑わった。東海地方から江戸への物資流通路にもあたり、八王子方面...
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
保津川下りの船内から下流を撮影する。南岸には大きな岩がむき出しとなっている。保津峡は嵐峡とも呼ばれ、亀岡保津橋附近から嵐山渡月橋附近までの保津川約13kmの峡谷である。急流奇岩が連続する景勝地で、愛宕...
日本三景の一、松島。右手には三角に帆を張った和船が浮かび、左手には手前に岸の一部、その向こうに松を戴いた岩塊、さら先には島影がのぞいている。波静かな水面は鏡のようで、上下を逆さにしても同じ光景が得られ...
嵐山を保津川南岸より満開の桜の枝越しに東に遠望する。幾重にもつなげられ急流の保津川渓谷を下ってきた筏が、流れが穏やかとなる嵐山にて保津川南岸に集結し、貯木場となっている。左背後には小さく渡月橋が見える...
保津川下りの小舟を上流北岸から撮影する。山腹の森林の多くが刈り取られ、地肌があらわになっている。保津川下りとは亀岡保津町から嵐山渡月橋上流までの行程約16kmの船による川下りである。近世には丹波亀岡か...
嵐山渡月橋を桂川北岸東部から西に遠望する。手前北岸には3艘の丸子船が横付けされて停泊し、松並木が姿を見せる。橋南詰には小規模な集落が点在している。写真の渡月橋は明治25年(1892)の水害で流失した。...
嵐山での舟遊びに興じる人々を撮影する。女性4名が乗船した手前の屋形船では、船頭が櫂を使って船を下流に向かって漕ぎ出している。9名の男性が乗船している奥の屋形船は木陰で停船し、嵐山の景観を鑑賞している様...
嵐山温泉北側の保津川北岸から上流を望む。萱葺の方形屋根の茶店には、壁がなく角材の柱がむき出しとなっている。中には長机と長椅子が置かれ、着物姿の女性が座り休憩している。辺りには植えられたばかりの立木が見...
八坂神社境内南東側辺りから東山を東に望む。左端には也阿弥ホテルの別館、洋風の本館の妻壁が姿をのぞかせる。中央に高くそびえる三層の楼閣は、明治6年(1873)に京都の近代化の推進者であった明石博高(ひろ...
金剛寺(紅葉寺)あたりの音無川(石神井川)であろう。川が曲がった所で、橋が架かっていて風情があったそうである。橋の傍らの窟(いわや)の中には弁天が祀ってあった。丘の上には茶店もあったという。音無川はこ...
遊郭入口にあった大門(おおもん)を背にして、メインストリートの仲之町(なかのちょう)を見る。春になると桜を主に安行(あんぎょう)から運んで植えたという。通りの左右に引手茶屋が並ぶ。右側奥に写る塔は、明...
嵐山渡月橋北岸西側の三軒茶屋「旗亭」を保津川南岸から北に望む。三軒茶屋は中央部が3層、東部と西部が2層となり、東部と中央部は棟続きとなっている。三軒茶屋の東西両側の保津川岸には、長い屋根付きの床が設け...
明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で、竹の久...
本稿は本誌第78号「近世の嵐山と日切茶店」に引き続き、天龍寺の寺務日誌『年中記録』を素材として、近世という時間のなかで名所嵐山をめぐって繰り広げられたさまざまな人びとの営みの跡をみつめようとするもので...
相模川のほとりであろう。厚木は東海道の脇往還にして大山参詣路でもある矢倉沢往還に沿う宿場として、また相模川の水運を利用した物資集散地として賑わった。東海地方から江戸への物資流通路にもあたり、八王子方面...
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
保津川下りの船内から下流を撮影する。南岸には大きな岩がむき出しとなっている。保津峡は嵐峡とも呼ばれ、亀岡保津橋附近から嵐山渡月橋附近までの保津川約13kmの峡谷である。急流奇岩が連続する景勝地で、愛宕...
日本三景の一、松島。右手には三角に帆を張った和船が浮かび、左手には手前に岸の一部、その向こうに松を戴いた岩塊、さら先には島影がのぞいている。波静かな水面は鏡のようで、上下を逆さにしても同じ光景が得られ...