旧県立箱根観光会館辺りの早川から、上流の新玉の湯旅館方面を望んだ図。早川の様子は川の氾濫や治水事業によって変わってしまったが、山並みの様子等は変わらない。ネガ番号から整理番号9-5と同時の写真と思われる。A view of the new Tamanoyu Hotel upstream along the Haya River around the former prefectural Hakone Tourist Building. The scene in Haya River has changed due to flooding and improvement projects along the river, but the natural scenery has not changed. Probably the same photo as that numbered 9-5
丹沢山中の宮ヶ瀬は、外国人にとって、遊歩区域内の代表的な行楽地の一つであった。この写真のあたりは多くの外国人が水浴びやを楽しんだので「唐人河原」と呼ばれた。平成10年(1998)宮ヶ瀬ダムの完成により...
湯の湖北岸に突出する半島、 兎島から湯元温泉の旅館街を見る。 湯元から温泉が注ぐので湯の湖の名が付いた。 湯の湖の水は湯滝に流れ落ち湯川となる。 旅館街の湖畔に葦が茂っている。A view of th...
明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で、竹の久...
旭日橋の上手から、早川を左手に湯本方面を見た図。富士屋ホテルの山口仙之助による湯本・宮の下間の道路の完成は、明治20年の末で、電灯が湯本に点いたのは明治25年だから、人力車・電灯から25年以降と分かる...
湯本の遠景で、明治10年に建てられた福住楼の洋館金泉楼が見えないので、それ以前の写真と分かる。左の須雲川と右の早川が合流する辺りは、現在は湯本の中心地だが、当時は畑が主で、集落は北側に見えるに過ぎない...
塔の沢温泉の写真で、左が元湯環水楼、右が一の湯。どちらも箱根の老舗の旅館で、環水楼は、公武合体運動のヒロイン皇女和宮が亡くなった所である。和宮の心を沈ませた早川の流れの上には、玉緒橋が掛かっている。A...
萬翠樓福住の洋館を中心とした湯本温泉の情景である。画面下の早川に掛かるトラス橋は明治26年に今まであった旭日橋が上流に付け替えられ、代わりに福住橋として架設されたものなので、明治26年以降の写真である...
湯の湖北岸に突出する半島、鬼島から湯元温泉の旅館街を見る。湯元から温泉が注ぐので湯の湖の名が付いた。湯の湖の水は湯滝に流れ落ち湯川となる。旅館街の湖畔に葦が茂っている。The view of the ...
早川の上に掛かる三枚橋の写真で、今でもほぼ同じ位置に近代的な橋が掛かり、岸に見える民家の位置も今と変わらない。三枚橋は時代で形を変えるが、小林清親が描いた明治13年(1880)の絵に近いので、その頃の...
奥湯本にある玉簾の滝の前に造られた滝の前公園飛烟閣の写真である。明治22年(1889)に公園として整備されたので、それ以降の撮影となる。関東大震災で崩壊し、現存しない。公園は、現在の天成園の位置にあっ...
国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、塔の沢の渓谷付近である。宮の下富士屋ホテルの山口仙之助が、自己資金と底倉・宮城野等近隣の村や有志の援助を得て開鑿したもので箱根の発展に大きく貢献した。...
湯の湖からの水の落口に広い岩盤を末広がりに流れ下る湯滝がある。 湯滝が湯川となって戦場が原を流れ龍頭の滝となって中禅寺湖に落ちる。 滝壷近くの中央の立木はまだ小さい。 昭和末大きくなったこの立木は洪水...
明治26年(1893)に移設された旭橋を少し上った、現在は旧箱根観光会館へ渡る橋がある辺りの情景。明治20年(1887)開通の塔ノ沢・宮ノ下間の車道には、男性の釣り人二人、浴衣の女性5人、電柱の横にも...
湯本茶屋付近から眺めた双子山と旧東海道。左の松の木の左手には、明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線と電信柱が見えるので、それ以降の撮影である。石畳は文久年間(1861-64)に大改修さ...
丹沢山中の宮ヶ瀬は、外国人にとって、遊歩区域内の代表的な行楽地の一つであった。この写真のあたりは多くの外国人が水浴びやを楽しんだので「唐人河原」と呼ばれた。平成10年(1998)宮ヶ瀬ダムの完成により...
湯の湖北岸に突出する半島、 兎島から湯元温泉の旅館街を見る。 湯元から温泉が注ぐので湯の湖の名が付いた。 湯の湖の水は湯滝に流れ落ち湯川となる。 旅館街の湖畔に葦が茂っている。A view of th...
明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で、竹の久...
旭日橋の上手から、早川を左手に湯本方面を見た図。富士屋ホテルの山口仙之助による湯本・宮の下間の道路の完成は、明治20年の末で、電灯が湯本に点いたのは明治25年だから、人力車・電灯から25年以降と分かる...
湯本の遠景で、明治10年に建てられた福住楼の洋館金泉楼が見えないので、それ以前の写真と分かる。左の須雲川と右の早川が合流する辺りは、現在は湯本の中心地だが、当時は畑が主で、集落は北側に見えるに過ぎない...
塔の沢温泉の写真で、左が元湯環水楼、右が一の湯。どちらも箱根の老舗の旅館で、環水楼は、公武合体運動のヒロイン皇女和宮が亡くなった所である。和宮の心を沈ませた早川の流れの上には、玉緒橋が掛かっている。A...
萬翠樓福住の洋館を中心とした湯本温泉の情景である。画面下の早川に掛かるトラス橋は明治26年に今まであった旭日橋が上流に付け替えられ、代わりに福住橋として架設されたものなので、明治26年以降の写真である...
湯の湖北岸に突出する半島、鬼島から湯元温泉の旅館街を見る。湯元から温泉が注ぐので湯の湖の名が付いた。湯の湖の水は湯滝に流れ落ち湯川となる。旅館街の湖畔に葦が茂っている。The view of the ...
早川の上に掛かる三枚橋の写真で、今でもほぼ同じ位置に近代的な橋が掛かり、岸に見える民家の位置も今と変わらない。三枚橋は時代で形を変えるが、小林清親が描いた明治13年(1880)の絵に近いので、その頃の...
奥湯本にある玉簾の滝の前に造られた滝の前公園飛烟閣の写真である。明治22年(1889)に公園として整備されたので、それ以降の撮影となる。関東大震災で崩壊し、現存しない。公園は、現在の天成園の位置にあっ...
国道1号線の前身となった、湯本・宮の下間の道路で、塔の沢の渓谷付近である。宮の下富士屋ホテルの山口仙之助が、自己資金と底倉・宮城野等近隣の村や有志の援助を得て開鑿したもので箱根の発展に大きく貢献した。...
湯の湖からの水の落口に広い岩盤を末広がりに流れ下る湯滝がある。 湯滝が湯川となって戦場が原を流れ龍頭の滝となって中禅寺湖に落ちる。 滝壷近くの中央の立木はまだ小さい。 昭和末大きくなったこの立木は洪水...
明治26年(1893)に移設された旭橋を少し上った、現在は旧箱根観光会館へ渡る橋がある辺りの情景。明治20年(1887)開通の塔ノ沢・宮ノ下間の車道には、男性の釣り人二人、浴衣の女性5人、電柱の横にも...
湯本茶屋付近から眺めた双子山と旧東海道。左の松の木の左手には、明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線と電信柱が見えるので、それ以降の撮影である。石畳は文久年間(1861-64)に大改修さ...
丹沢山中の宮ヶ瀬は、外国人にとって、遊歩区域内の代表的な行楽地の一つであった。この写真のあたりは多くの外国人が水浴びやを楽しんだので「唐人河原」と呼ばれた。平成10年(1998)宮ヶ瀬ダムの完成により...
湯の湖北岸に突出する半島、 兎島から湯元温泉の旅館街を見る。 湯元から温泉が注ぐので湯の湖の名が付いた。 湯の湖の水は湯滝に流れ落ち湯川となる。 旅館街の湖畔に葦が茂っている。A view of th...
明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で、竹の久...