英語で「山手、横浜」と印刷されているが、これは山手の丘から海を望んでいる。木製の手すりがついた斜面の街路を人力車夫が婦人の客を乗せて登攀している。地蔵坂で外国人遊歩新道を撮影したものである。The caption reads "Bluff, Yokohama" in English, but this is a view of the sea from the Yamate hills. A rickshaw man pulls his cart with a lady passenger up the street with wooden handrails, perhaps Jizozaka
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。The photo can be dated d...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。...
写真中に場所を特定する手掛かりはないが、整理番号3-1「横浜海岸通り(1)」との比較から、本写真も横浜海岸通りと思われる。着物にかんかん帽をかぶった男が柵の鎖に持たれて物思いに耽っているようである。T...
遠方にバンドと山手の丘を望む。中央やや右に見える大きな洋館2棟は、バンド東端に位置するグランド・ホテルの旧館(左)と新館(右)。堀川を越えてその左手にはイギリス海軍の物置所。右端はフランス波止場のたも...
風頭から旧市街北部の鳥瞰風景。中島川は出島の背後にで流れが変えられ、架橋されている。税関の建物が海上に見えている。写真左下に英語で「長崎港」の意の説明。整理番号21-10とほとんど同じアングルで撮影さ...
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真が、1枚物やそれをアルバムにして販売されたのに対して、個人アルバムは貴重である。全て、鮮やかな彩色がされてい...
ベアト撮影。「陽の当たる丘からの横浜の景色」とキャプションに書かれている。これは山手からみた元町と外国人居留地と思われる。谷間には墓石が並んだ墓地が見える。Taken by Beato. The ca...
滋賀県草津市に所在。近江八景の1つ、矢橋帰帆(やばせのきはん)で知られ、東海道の近道として大津宿とを結ぶ「矢橋の渡し」で栄えた。写真に写る湖面は、明治以降、琵琶湖の水位低下によって、どんどんと耕地化が...
英語で「覆われた舟(屋根舟)」と解説されている。船頭と中央の男性は半纏を着ているが、この半纏は小川一真のモデルの特徴である。女性の5人ともモデルと思われる。遠景は横浜であろう。The English ...
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる。A fishi...
グラバー住宅が三菱重工から長崎市に寄贈され、昭和30年(1970)に長崎市のグラバー邸が整備された。昭和30年(1970)頃のグラバー邸から長崎港、長崎湾の湾奥を見た絵葉書。2枚つづりの戦後の絵葉書。...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
遠方にバンドと山手の丘を望む。中央やや右に見える大きな洋館2棟は、バンド東端に位置するグランド・ホテルの旧館(左)と新館(右)。堀川を越えてその左手にはイギリス海軍の物置所。右端はフランス波止場のたも...
風頭山から飽の浦と長崎港を眺望する。左端の樹木の繁る丘は東山手、中央より右寄りに出島。中島川の河口には、明治2年(1869)に架けられた新大橋が見える。漆喰で塗られた瓦屋根が目立つ明治10年代の長崎の...
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。The photo can be dated d...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。...
写真中に場所を特定する手掛かりはないが、整理番号3-1「横浜海岸通り(1)」との比較から、本写真も横浜海岸通りと思われる。着物にかんかん帽をかぶった男が柵の鎖に持たれて物思いに耽っているようである。T...
遠方にバンドと山手の丘を望む。中央やや右に見える大きな洋館2棟は、バンド東端に位置するグランド・ホテルの旧館(左)と新館(右)。堀川を越えてその左手にはイギリス海軍の物置所。右端はフランス波止場のたも...
風頭から旧市街北部の鳥瞰風景。中島川は出島の背後にで流れが変えられ、架橋されている。税関の建物が海上に見えている。写真左下に英語で「長崎港」の意の説明。整理番号21-10とほとんど同じアングルで撮影さ...
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真が、1枚物やそれをアルバムにして販売されたのに対して、個人アルバムは貴重である。全て、鮮やかな彩色がされてい...
ベアト撮影。「陽の当たる丘からの横浜の景色」とキャプションに書かれている。これは山手からみた元町と外国人居留地と思われる。谷間には墓石が並んだ墓地が見える。Taken by Beato. The ca...
滋賀県草津市に所在。近江八景の1つ、矢橋帰帆(やばせのきはん)で知られ、東海道の近道として大津宿とを結ぶ「矢橋の渡し」で栄えた。写真に写る湖面は、明治以降、琵琶湖の水位低下によって、どんどんと耕地化が...
英語で「覆われた舟(屋根舟)」と解説されている。船頭と中央の男性は半纏を着ているが、この半纏は小川一真のモデルの特徴である。女性の5人ともモデルと思われる。遠景は横浜であろう。The English ...
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる。A fishi...
グラバー住宅が三菱重工から長崎市に寄贈され、昭和30年(1970)に長崎市のグラバー邸が整備された。昭和30年(1970)頃のグラバー邸から長崎港、長崎湾の湾奥を見た絵葉書。2枚つづりの戦後の絵葉書。...
英語で「波止場、横浜」と記されている。横浜港桟橋の入口である。明治23年(1890)に通信塔の向こうに建設される横浜築港事務所(コンドル設計)はまだないから、それ以前の撮影である。したがって、明治27...
遠方にバンドと山手の丘を望む。中央やや右に見える大きな洋館2棟は、バンド東端に位置するグランド・ホテルの旧館(左)と新館(右)。堀川を越えてその左手にはイギリス海軍の物置所。右端はフランス波止場のたも...
風頭山から飽の浦と長崎港を眺望する。左端の樹木の繁る丘は東山手、中央より右寄りに出島。中島川の河口には、明治2年(1869)に架けられた新大橋が見える。漆喰で塗られた瓦屋根が目立つ明治10年代の長崎の...
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。The photo can be dated d...
明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田...
明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。...