武士は主君への忠誠をきわめて重んじていたというイメージは、今日なお社会の隅ずみにまで浸透している。戦士たちは、二君に仕えるのはもってのほかという倫理観に従っていたととらえられているのである。しかし徳川幕府成立以前の武士には、いわゆる「去就の自由」(佐藤進一)の原理に基づく行動、すなわち降参、寝返り、その他離合集散が目立った。激動の時代を彼らが懸命に生き延びようとする姿は近年の実証的研究によって飛躍的に明らかになりつつあるが、その成果によれば、およそ以下のような傾向が見られる。 1. 主従関係は一様ではなく、その強弱には様々な度合いがある。 2. 主君が死亡した場合、家臣の忠誠義務はその遺子に自動的に引き継がれるわけではない。 3. 支配権力が弱まると「去就の自由」は活発化する。 4. 降参自体は名誉なことではない。 5. 支配層が分裂した場合、家名と所領を維持するため武士の一族も敵味方に分かれることがあった。生き残った側が敗者方の領地を恩賞として再給付されることが見込まれていたからである。 武士にとり、合戦で勲功をあげて恩賞を得ることはきわめて大きな関心事だった。主な勲功は敵の首を取ること、戦死、負傷であり、恩賞としては自己の所領の「安堵」、新たな領地、そして地頭戦などだが、恩賞の認定に不満な場合、戦列を離れることもありえた。おそらく蒙古襲来の時から、その手続きは「軍忠状」の認定という形で文書化される。軍忠状には様々な形態があるが、これは恩賞の認定が長く慣習法に則って行われていたことに起因するらしい。しかし現存するどの文書でも戦功の記述は詳細をきわめ、中には記載された負傷の表現の横に吟味役が「深」、「浅」を記入した文書も残されている。これらの文書を基に合戦記録が作成されて京都...