application/pdf本稿は、前近代の触穢と精進法のあり方を通じて、前近代の呪術・信仰が生業・技術や権力の動き・さらには民衆生活をどのように規制していたのかについて検討し、これまでの通説であるケガレ観念の国家的管理論や、天皇・禁裏や伊勢神宮は神聖な空間が維持され、穢多・清目・河原者には「服忌によっても禊祓によっても払拭できない穢」が集中したとする見解を実証面から批判したものである。本稿では、室町期の内裏では禁中触穢が繰り返され、天皇は四方拝や毎日拝を神事でないことを理由に穢のときでも公事として実施していた史実を指摘した。系譜上の父母である上皇・国母が死去した際には、倚廬とよぶ粗末な庵をつくり十四日間忌みこもりを行なっており、禊ぎと祓えによって死穢をキヨメる呪術的儀礼であったことをあきらかにした。ここから中世天皇や禁中が穢れと浄の混在する世界であったことを指摘した。 第二に、伊勢神宮の最初の服忌令とされる「文保記」の史料検討を行い、東海地方の神官や民衆が触穢に対処する精進法の個別事例集としての性格をもっていたことを指摘し、在地の民衆知では生業を優先的に営むために、物忌みや禁忌の期間を短縮し、「斃牛馬を掃除の人、穢の限以後、別憚り無き也」との規定を作り出し、被差別民に対しても穢れは消滅するもの・払拭できるものという社会思潮を有していたことをあきらかにした。 第三に、鎌倉末から南北朝期の東海地方の下層民衆は、死人の葬儀を忌避し「触穢を遁れるため」に「野棄」や「速懸」と呼ばれた死体遺棄という独自な埋葬方法を実施した。それは中世社会において「死去の不審」があったため、生きかえることを期待した民衆の行動であり、野棄・速懸は下層民衆独自の合理的な知の体系性をもった民衆知であったこと...