戊辰戦争期に江戸で生活していた多くの市民・民衆は、東征軍による江戸駐留に対して拒否的な反応を示していた。「新政府」は江戸民衆のそうした政治意識を圧殺・再編せざるを得ず、両者の間で激しい抗争が展開される。この抗争は、新旧両権力間で展開している戊辰戦争とは異なる、もう一つの戊辰戦争である。本稿は、このもう一つの戊辰戦争を、民衆思想史の視点から解明したものである。ただし、本稿は正月十二日慶喜東帰から四月二十一日大総督宮入城までに限定し、その間に江戸民衆の眼前で生起した事象を分析し、江戸民衆の意識・思想をめぐる抗争の特質を解明した。旧幕府諸勢力の動きは多様であったが、小諸藩主牧野康済(やすまさ)の歎願書は際だっていた。ひたすら、臣子として徳川家に仕えることで朝廷に仕えるのだ、との論理一つを主張、朝命だからとて慶喜追討の兵は出せないと突っ張り、出兵拒否で「朝廷の闕失を補う」とまで直言した。この論理が大総督宮入城当日に、江戸市民の眼前に示されていた。一方、東征軍の江戸入り総過程を通じ、江戸市民の負担は急激に膨張する。それにより「万民塗炭之苦」を朝廷が救うとの論理は破綻し、「天子之御民」は空語となる。江戸町民は、東征軍入城によって下層民にまで負担が及ぶ状況の改善を町奉行所に提出、入用が嵩んだ四月五日には町人惣代九十余名が歎願書を先鋒隊宿所に提出した。他方、柳河春三(しゅんさん)は二月下旬以来、「新政府」嫌悪を根底に据えつつも軍事的抵抗は無益とし、外国交際と言論を重視する市民派新聞『中外新聞』を発行し続けていた。この市民派新聞が背景の力となって、四月二日、江戸町奉行佐久間鐇五郎(ばんごろう)は市中困窮人への御救米支給を決定した。統治権の委譲を目前にして、新権力へのギリギリの抵抗として、市民・...
application/pdf本稿では、多賀城南面における街並み形成の前提として、宝亀十一年(七八〇)の伊治公呰麻呂の謀反を契機とする多賀城の火災と復興、それらと征討との関連を検討した。まず、多賀城の...
本稿は幕末期に弘前藩において種痘がどのように受容されたかということと、幕末期に行われた医学制度の改革である医学館の創立を、蘭学の受容や種痘の実施と絡めて考察したものである。弘前藩領における本格的な蘭学...
application/pdf3~6世紀の古墳に立てた埴輪のうち,4~6世紀のとくに円筒埴輪に,数は少ないけれども絵を描いた例がある。鹿と船がもっとも多く,鹿狩りをあらわした絵もある。それ以外の絵はと...
application/pdf戊辰戦争期に江戸で生活していた多くの市民・民衆は、東征軍による江戸駐留に対して拒否的な反応を示していた。「新政府」は江戸民衆のそうした政治意識を圧殺・再編せざるを得ず、両...
本論文は、一九世紀初頭における日光をめぐる歴史意識について、植田孟縉の『日光山志』と竹村立義の『日光巡拝図誌』をもとに論じるものである。『日光山志』は五巻五冊からなり、天保七年(一八三六)に刊行された...
本稿は、日本の近代化の先駆けであり、薩摩藩の近代科学技術の導入とその実践の場であった「集成館事業」の背景としての視点から、薩摩藩の蘭学受容の実際とその変遷について考察したものである。薩摩藩の蘭学は、近...
application/pdf藤根村という東北の貧しい農村に生まれた高橋峯次郎という一教師をとおして、彼が生きた明治・大正・昭和の三時代とはどういう時代であったのか、また村の指導者として日露戦争、満州...
application/pdfここでの問題意識は、民衆・常民の視点、民衆・常民の側に立った史学、文化史が民間伝承の学(民俗学)の本質とするならば、語りの部分、語られた部分を基礎に、戦争をとらえていくこ...
本稿は、早大教授であった故深谷博治氏が所蔵していた史料群の整理作業における中間報告である。第一の課題は、その史料群構造と現在の保存環境に至るまでの来歴を明らかにすることである。第二は、更に一歩進めて記...
『常陸国風土記』には,7世紀中葉における信太,行方,香島,多珂,石城などの諸評(郡)の建評記事がみられ,国造制にもとづく新治,筑波,茨城,那珂,久慈,多珂の6国が12の評に分割される過程がうかがえる。...
application/pdfこれまで中世村落の一年は、農事暦が形づくる農民の四季として描かれてきた。しかし、農業に内部化しない外部的複合の生業パターンをもつ海村においては、海辺という立地環境に応じた...
7世紀における地域社会の変化については,律令制の浸透とともに,国郡里制の地方支配やそれを支える官衙群,生産工房群,宗教施設群の成立として捉えられている。一方で,古墳時代以来の墓制も残存しており,とりわ...
application/pdf本稿は、前近代の触穢と精進法のあり方を通じて、前近代の呪術・信仰が生業・技術や権力の動き・さらには民衆生活をどのように規制していたのかについて検討し、これまでの通説である...
本論考は、満州事変・日中戦争、アジア太平洋戦争期をとおして、国家、特に軍が、兵士の見送りと帰還にどのような方針で臨んだのか、また兵士はどのようにして戦場へ送り出され、あるいは帰還したのかという点につい...
お椀の素材となる白木の椀木地を作ってきた木地屋は歴史的には近世以前に遡る古い職業であり、その彼らが使ってきた道具ろくろも同様に古い歴史を持つ。彼らは日本各地の山中で移住生活を送っていたといわれるが、そ...
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