application/pdf『日本書紀』の崇神紀や景行紀などには,上毛野氏に係わる祖先伝承が掲載されている。この現象は東国出身氏旅としては異例であるが,内容は①始祖は崇神天皇の皇子の豊城入彦命,②東国の統治と蝦夷征討に関わる,③中央政権の構成氏族として外交・外征に参加している,といった点に要約される。 このような祖先系譜が採録された事情を知る上で,『紀』が撰修された時期の中央政権での上毛野氏の動向に注目する。それはこの時期の重要政策である出羽方面の律令的編成事業において,その出自の地である上野国の性格と密接に関わるものと考える。そこでは上野国は「随近国」と位置付けられて,関東平野の諸国に先んじて,征討や柵戸移民に目ざましい動きを示している。このことは上野国が関東平野の北西隅にあって,日本海側との往来の便地であると同時に,碓氷峠を掌握する要衝を占めるという地理的な要因にもとづくものとみなされる。 こうした様相から,中央政権が陸奥方面の統治を目指した時期には,陸路での要衝にあたる上毛野地域と下毛野地域の政治的安定と,人的・物的資源の供給を担う在地氏族の確保が不可欠な要件であったと推察される。『紀』で上毛野氏と下毛野氏が,東国統治を担った皇子豊城入彦命を始祖とし,その三世孫で蝦夷征討を行った御諸別王の子孫で東国に居付いたものであるとの系譜構造は,こうした地理的特性を反映したものとみてよい。 その実態は,史料では7世紀代のいくつかの記事から推察されるのみであるが,考古学的には総社古墳群を指標とした時,中央政権を背景とした上毛野地域の一元的統括が顕在化するのは7世紀前半からとみなされる。そうした政治的特性は,蝦夷地経営が大規模化し,それに応じた新たな「随近」地域である「坂東」が設定さ...